足利幕府の時代から御用達彫金師として仕えた。
織田信長、豊臣秀吉の刀剣装身具、大判鋳造の御用達を務めた。
関ヶ原の合戦において
後藤徳乗
は石田三成方につき、その後、大坂の役においても豊臣方についたことから徳川幕府体制が固まる中で蟄居の生活を送っていた。
ただ、徳川家康方についた弟の
後藤長乗
が後藤宗家が絶えるのを憂いて家康から赦免を取り付けた。
後藤家は長乗が徳川家康にも仕えるようになり、大判の鋳造と墨判および両替屋の分銅の鋳造を請負った。
天正大判は徳乗の墨判である。
なお、慶長大判には長乗による墨判のものがある。
後藤家の当主は代々
後藤四郎兵衛
を通称とし、江戸時代にはいると大判座後藤家は腰物奉行の支配下となった。
なお、大判も扱うことになり勘定奉行および町奉行の支配も同時に受けていた。
初代後藤祐乗から七代顕乗までの後藤屋敷は京都上京柳原(京都市北区岩栖辻子)にあった。
小判鋳造を手がけた金座の
後藤庄三郎家
と区別するため大判座後藤と呼ばれた。
小判座初代当主後藤庄三郎光次は本姓が橋本あるいは山崎で、後藤四郎兵衛家の職人として働く中で
五代 後藤徳乗
に抜擢され、後藤を名乗ることを許されたといわれる。
寛永2年(1625年)に八代即乗は徳川幕府により江戸詰を命じられ、江戸本白銀町三丁目(東京都中央区)に屋敷を拝領した。
明暦2年(1656年)には十代廉乗が
御用達町人上座
となり、江戸神田永富町(千代田区神田)に屋敷を拝領した。
明暦3年(1657年)の起きた明暦の大火により江戸にあった後藤屋敷は類焼し、先祖以来の記録、家系図が失われた。
明暦の大火による
焼損金銀吹き直し
の功労により万治3年(1660年)に扶持石高250石を与えられ、寛文2年(1662年)からは江戸定詰となった。
正徳5年(1715年)には本白銀町と神田の屋敷を返上、銀座のある京橋新両替町一丁目(中央区銀座)に改めて屋敷を拝領している。
大判の墨判は品位を証明するものとされ、墨書が消えた場合は後藤役所に持参して墨判料を支払い書き改めを受けた。
大判鋳造は始め京都で行われていたが元禄年間以降は江戸で行われるようになった。
そのため、墨判の書き改めは京都、江戸の両方で行われるようになったという。
大坂にも後藤役所の出張所が設けられた。
当初分銅の吹所は大坂大和橋東詰四丁目(大阪市中央区)に置かれていた。
文化期より分銅の鋳造は京都に移された。
徳川幕府は度量衡の統一、不正防止を目的に計量器の統制を行った。
枡は寛文年間に江戸の
樽屋藤左衛門
と京都の
福井作左衛門
秤は承応年間までに江戸の
守随彦太郎
と京都の
神善四郎
のつくるものが公定枡および秤とされた。
こうした分野の仕事は世襲制となり、枡座および秤座といった御用達町人による請負事業であったという。
なお、秤に用いる分銅の製作は
後藤四郎兵衛家
が請負い、分銅座が形成されたものの形成時期は明らかではない。
寛文5年3月(1665年)に江戸、京都、大坂に「似せ分銅」取締の触書が出されており、同時期前後に設置されたと考えられる。
両替屋は使用する分銅について定期的に分銅改めを受けるきまりとなっていた。
検定された分銅の検極印料を収入とし、検極印の無い分銅は使用厳禁とされ没収の対象となった。
後藤四郎兵衛家は江戸時代初期においては茶屋四郎次郎家および角倉了以家と共に京都の三長者と呼ばれた。
御用達町人による恒例の年頭御礼も大判座後藤、金座後藤、本阿弥三郎兵衛、後藤縫殿助、茶屋四郎次郎の順で筆頭にあった。
ただ、この席順はしばしば変更され家格争論を引き起こしたことでも知られる。
元禄改鋳の功労により元禄10年(1697年)から
金座後藤十一代庄三郎光包
が遠島流罪となった文化7年(1810年)まで、および
金座後藤十三代三右衛門光亨
が御用達町人上席となった天保5年(1834年)から入牢させられた弘化元年(1844年)までの間は金座後藤が筆頭となり、大判座後藤は次席となった。
十代廉乗が幕府から江戸定詰を命じられるようになると、京都在住の後藤の分家と江戸の四郎兵衛家との間が次第に嫌悪となり対立が生じるようになった。
享保12年11月(1727年)には京都の後藤家が、江戸在住の四郎兵衛家は主に上方の両替屋で用いられている分銅の事情に疎いため、今後も従来通り分銅の御用は京都で行うを幕府に願い出た。
また、近年四郎兵衛家が幕府や大名等から依頼される大判の墨判をほぼ独占する事態になっていたため、京都方にも命じてもらう様、京都奉行所に訴えるという事態まで発展した。
この訴えに対し、江戸の四郎兵衛家は享保14年2月(1729年)には今後新大判の墨判の書改めは京都の後藤家では無用であるとの訴えるに至った。
なお、京都方では連判して大判の墨判の書改めは古来より京都、江戸の両家が共に行うところで四郎兵衛家の勝手な振る舞いは許されるものではないとして訴えたという。
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