1960年代に入ると米国の犯罪組織の集まりである
全米犯罪シンジケート
はケネディ兄弟によって激しい攻撃を受けた。
ケネディ兄弟の妥協のないシンジケートを撲滅しようとする態度は父親
ジョセフ・P・ケネディ
が禁酒法時代に築いた
マフィア
の酒の密売をめぐる親密な関係を利用し莫大な利益を上げたこと棚に上げたものでもあった。
ジョン・F・ケネディは捜査部門に対し、遠慮せず、徹底的に調査を続けろ。ここには、1つしか規則はない。もし奴らが悪なら、単に傷つけるというようなことでなく、完璧に殺してしまわねばならない。と指示を出した。
1961年、第35代大統領に
ジョン・F・ケネディ
が就任し、司法省長官に弟の
ロバート・ケネディ
が就任すると、ケネディ内閣はかつてないほどのスケールで、米国の巨大な犯罪組織でもある
シンジケート撲滅作戦
に乗り出した。
ケネディ兄弟は伝統的マフィアの本流であるシカゴ・アウトフィット のボス
サム・ジアンカーナ
にまでその手をのばしていった。
ロバート・ケネディは
FBI、国税庁、商務省
など連邦政府の全機能をフルに動かして、シンジケートに対して本拠地のひとつで最大の集金マシーンである
ラスベガス
を直撃するという大がかりな戦略を練っていた。
1963年の10月には、この大戦略のプランは完成していたという。
実施のゴーサインを出す時になって、敢行直前にケネディ大統領が暗殺されたため、この作戦は中止された。
ロバート・ケネディが司法長官になってから、司法官の
対シンジケート作戦部
はそのサイズが4倍に拡大された。
起訴対象のリストに挙げられたマフィアの数は2,300人にのぼった。
ロバート・ケネディは著書「正義の追及」の中で、1963年の前半6ヶ月のうちに、我々は171人のシンジケート・メンバーを起訴に持ち込んだ。
3年前の同じ時期には24人だった。
1963年全期を通して、我々がかち得た有罪判決は、160件に達した。
なお、3年前は35件だった。
1962年、司法省管轄の検事達が法廷で過した時間は809日、法廷外の調査に費やした時間は7,369日にのぼった。2年前の数字は法廷で283日、調査に1,963日だった。
という具体的数字を挙げて、アイゼンハワー時代との相違を説明した。
1961年4月4日に、当時全米闇社会でナンバーワンの実力を誇っていた
カルロス・マルセロ
を強制逮捕し、国外追放とした。
ロバート・ケネディも1968年に、民主党の大統領候補指名選のキャンペーン中にに難民でエルサレム出身のパレスチナ系アメリカ人のサーハン・ベシャラ・サーハンに銃撃を受け死亡した。
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2014年01月05日
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