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2016年09月03日
ジャック・レッグズ・ダイアモンド アイルランド系ギャング「ジェントルマンジャック」
ジャック”レッグス”ダイアモンド
Jack "Legs" Diamond
(1897年7月10日- 1931年12月18日)
アイルランド系ギャングのひとりで
ジェントルマンジャック(Gentleman Jack)
とのニックネームで知られている。
敵対する組織などから度重なる襲撃を受けたものの、一命をとりとめ生き延びた。
こうしたことから
"裏社会のピージョン(クレー射撃の的)"
の異名がある。
他のギャング組織などと徒党を組むのを好まず無頼派で通した。
フィラデルフィア北東部ポートリッチモンドで生まれ育った。
弟エディと共に不良の仲間入りし船舶ボイラーの廃棄場をアジトにした
ボイラーギャング
に加わった。
学校をさぼってアジトにたむろし、他の不良と喧嘩したり強盗して何度も更生施設に入れられ、顔を広めて犯罪者としてのハクをつけた。
1913年に母親が死亡し、1915年ブルックリンに移住した。
学校卒業後、鉄工場など職を転々としたが性根が悪く放蕩癖などもあり
まじめな仕事
は好まず、当時流行したダンスホールに通い詰めるようになった。
マンハッタン西部のヘルズ・キッチンのギャング団
ハドソン・ダスターズ
のメンバーの下で小物の泥棒などをして生活費を稼ぐようになっていた。
1918年頃には兵役拒否で収監されている。
1921年の出所後、ロウアー・イースト・サイドで知り合った
ラッキー・ルチアーノ
と組んで泥棒や小規模の密輸などをの犯罪を行った。
やがてルチアーノに紹介された
アーノルドロススタイン
のボディーガードに雇われ、ヘロイン密売に手を染めた。
その後、独立して密輸酒の強奪する活動を始めた。
また、ロススタイン繋がりで組合ゴロの
リトル・オーギー・ジェイコブ・オーゲン
のギャングに参加した。
1923年8月、オーゲンが敵対していた
キッド・ドロッパー・カプラン
を、法廷に召喚されるように手配したうえで裁判所を出たところを暗殺したとされる。
その見返りにカプランが支配していた酒の密輸と麻薬商売の利権を手に入れ、現金が貯まるとナイトクラブで豪遊した。
1926年、密輸王
ビル・ドワイヤー
が監獄送りになると、バニー・ヒギンズと結託してその空白となった縄張りを宿敵の
ダッチ・シュルツ
と争った。
1926年12月、賭博屋を銃撃して怪我させた容疑で弟エディ、ジェームス・"ファティ"・ウォルシュ、ルチアーノらと共に逮捕された。
ただ、その後、賭博屋が証言を翻したため、放免された。
同年、アリス・シッファーと結婚した。
1927年10月、オーゲンと街中を歩いていた時
レプキ”ルイス・バカルター
の暗殺員に襲撃され、オーゲンは被弾して殺され、レッグスは瀕死の重傷を負った。
病院から退院すると、バカルターらに仕返しする代わりに取引し、オーゲンの縄張りのうち組合利権はバカルターが、密輸利権はレッグスが取ることで合意した。
ホッツィ・トッツィ・クラブ (Hotsy Totsy Club) を所有し、その奥の部屋は
争いの解決場所
という、いわゆる反逆者の殺害場所として役立ったという。
ここで暗殺した死体を泥酔した客に見せかけて外に運び出したりした。
なお、このクラブの正体を知ったルチアーノは仲間のギャングにホッツィ・トッツィには行くなと警告したという逸話もある。
ダイヤモンドは派手なライフスタイルを好んでいたが妻アリスはこうした派手なライフスタイルを快く思わなかったという。
ダイヤモンドは女たらしでもあった。
最も有名な愛人は、ショーガールでダンサーの
マリオン・キキ・ロバーツ
Marion "Kiki" Roberts
だったという。
大衆はダイヤモンドのはちゃめちゃな人生を愛し、彼がいたニューヨーク州北部の当時の最大の有名人の一人でもあった。
1920年代後半ビールや他のアルコールの販売は禁酒法の施行とともに米国では違法となっていた。
1929年7月13日、酔っぱらった波止場の荒くれ人夫3人がホッツィ・トッツィ・クラブに入り、バーテンダーに酒を持ってくるのが遅いと文句をつけ、レッグスと口論になった。
レッグスはピストルを抜いて発砲し、2人が死亡した。
大量の野次馬が殺人と聞いて交通麻痺を起こすくらいクラブに集まったという。
レッグスは逃亡し、8か月後にニューヨークに戻ってくると警察の取り調べを受けた。
ただ、25人ほどいた客は誰もレッグスについて証言せず、用心棒やウェイターら店の従業員4人が全員消息不明であること明らかになり、放免された。
ホッツィ・トッツィ騒動後ニューヨークを留守にしている間に、密輸ライバルに縄張りを奪われたうえマンハッタンから締め出された。
ニューヨーク州北部のキャッツキルに拠点を移し、キャッツキルの小高い丘に要塞のような豪邸を構え、時折降りてきてオールバニーのケンモアホテルのバールームで遊んだりした。
1930年8月、4人の仲間とヨーロッパに船旅をした。フ
フランス・ドイツ国境付近のアーヘンでドイツ警察に捕まり、ハンブルグ経由で送還された。
ドイツ警察が旅行目的は何かとの質問に「病気療養のため」と答えた。
実際は所有するスピークイージー用の酒の買付けで、違う船で渡航した別の仲間はレッグスが捕まったと知るや密輸計画をキャンセルした。
途中停泊したアイルランドの乗船者リストにレッグスと並んでルチアーノの名前があった。
レッグスに同行した仲間の1人だったことがその後のFBIメモなどから裏付けられている。
1931年12月18日早朝4時頃、パークス誘拐の公判で無罪が確定し、祝杯の酒に酔い潰れ、裁判のため仮宿にしていた北ニューヨークのオールバニーのアパートで侵入した2人のヒットマンに頭を3発撃たれ暗殺された。
下宿の女主人は3発目の銃声の後に「もう十分だ」という声を聞き、2人の男が車に乗りこんで去るのを窓から目撃したという。
密輸ライバルのダッチ・シュルツやバニー・ヒギンズ、オーレイ兄弟などが犯人候補に挙がった。
実行犯にはいろいろな説などがあるものの暗殺犯の捜査は行き詰まり、事件は迷宮入りした。
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