ベンジャミン・シーゲルは砂漠の街
ラスベガス
にハリウッドの洗練された魅力を持ち込み大規模なリゾート地として変える夢を持った。
当時のラスベガスには
フーバーダム
の建設作業員向けの安価で低俗な歓楽街としての役割があり、小規模なカジノしかなかった。
シーゲルから見れば場末の盛り場に過ぎなかった。
NYマフィアはハバナの歓楽街を支配し、米国の富裕層が博打等で利用することで莫大な利益を生み出すルートを確保していた。
その後、キューバでは1959年1月に独裁者バティスタを追放した
フィデル・カストロ
が政権を奪取し、カジノを閉鎖させた。
この影響で米国の犯罪組織は現地に投入していた資金や水揚げなど1700万ドルの損害を被った。
こうした失敗から政治の不安定な海外よりアメリカ国内で
合法的な賭博場
を作ったほうがリスクが低いと考えてマフィアのラスベガス進出を積極化させたことも背景となり、砂漠地帯の発展を加速させた。
シーゲルはそれまでラスベガスに無かった壮大なホテル
フラミンゴ
を建設するため、NYマフィアの有力者であるランスキーやコステロといったボスに頼み組織内から建設資金をかき集めた。
ニューヨーク・ヤンキースの共同オーナーにもなるアリゾナの大手建設会社
デル・ウェブ社
が工事を担当した。
しかし、建設時、第二次世界大戦後ということもあって、建設資材が不足していた。
組織から借りた資金を早急に返すらめ工事を急ぐシーゲルは闇市場から高額な資材を調達したりもした。
そのため、フラミンゴの建設費は予想を遥かに上回り、建設費が足りなくなると小切手の不渡りを出したり、同じ小切手を異なる相手に振り出すことを繰り返して無理な手法で資金を調達した。
建設費がかかりすぎたことでランスキーやコステロに建設費の私的横領を疑われ始めた。
この忠告に対して耳を傾けず、競馬通信社の支配権をめぐって組織内の抗争による暗殺実施による弱体化の可能性が高まったこともボスたちの不興を買うようになっていた。
ただ、バグジーはカリフォルニアの競馬通信社を犯罪組織の所有ではなく自分一人で独占したものと考えていたための暗殺の実施だった。
こうしてシーゲルは犯罪組織内における友人の信用を少しずつ失っていった。
シーゲルについての問題はやがてマフィアの最高レベルでの協議に持ち込まれることとなった。
キューバのハバナで行なわれた会議でも大きな議題となったという。
このときは、ランスキーがシーゲルを擁護したことから、組織による責任追及だけは何とか逃れていた。
それでもホテルのオープンまでが限界だった。
この頃、シーゲルと知り合いだったロサンゼルスファミリーのカポ
ジミー・フラチアノ
にはこれからラスベガスはどんどん大きくなるぞなどと自分の夢を語ったりしたという。
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(ベンジャミン・シーゲル @、A、B、C、D、E)
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2014年01月07日
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