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2013年12月31日
ヴィト・カッショ・フェロ 「ドン・ヴィート」と呼ばれた人物
ヴィト・カッショ・フェッロ
Vito Cascio Ferro
1862年1月22日 − 1943年)
シチリア・マフィアで最初に
ボスの中のボス
として「ドン・ヴィート」と呼ばれた人物で背が高く美男子だったという。
シチリア州パレルモ県にあるビザックイーノ村生まれで父は
農地監視人
だった。また、母は小学校の教師だった。
当時のシチリアでは珍しく読み書きができたという。
シチリアの民衆からは尊敬されており表では上流社会の名士を気取っていたが裏ではマフィアのボスだった。
フェッロが配下の村を訪ねると村の人たちはフェッロの手にキスをし尊敬を表したという。
なお、当時フェッロの手にキスすることは幸運をもたらすと考えられてもいた。
上流階級からも国会議員、貴族、大土地所有者として尊敬を受けていた。
NY市警で始めてイタリア系米国人として始めて警部補まで昇進した
ジョゼッペ・ペトロジーノ
を殺害した黒幕とも言われている。
なお、ペトロジーノはいつもダービーハットをかぶっていたため
「シルクハットの警官」
と呼ばれていた。
ペトロジーノは同じイタリア系の
マーノ・ネーラ
といった初期のマフィア(コーサ・ノストラ)相手に戦い1903年4月にニューヨークの殺人事件で8人のイタリア人を逮捕している。
その中にはヴィト・カッショ・フェロもいた。
1894年1月にイタリア政府がファッシの運動に対し厳しい追及を開始した。
一時期チュニジアへ渡り、故郷での追及が緩まったところでシチリアへ戻った。
戻ってからは正業には就けなくなり、生活のために犯罪の道へ進み窃盗グループ、誘拐団を組織した。
1898年にある貴族の娘の誘拐事件で逮捕され、3年の懲役刑を受けた。
当初は金目当ての誘拐犯とされていたが、真相は分からないがロマンチックな愛の物語ということを認められ、その後、刑期の満了を待たずに釈放された。
シチリア島外に縄張りを広げようと1901年8月に米国へ渡った。
現地のイタリア系米国人はカッショ・フェッロのことを知っていたので、ニューヨークのマーノ・ネーラ(コーザ・ノストラの前身)のボス
ジェヴァンニ・モレッロ
イニャルィオ・ルーポ
らに歓迎された。
NY等に3年ほど滞在し、その間にシチリア・マフィアとマーノ・ネーラの関係を強化した。
マーノ・ネーラに縄張りにある商店から上納金を納めさせる代わりに保護を与えるというやり方を教えた。
1904年10月にパレルモへ戻ると犯罪企業を作りだした。
シチリア、チュニジア、カラブリア、サルデーニャ、マルセイユを往復する漁船団を作り、表面的には地中海で漁をした。
実態は盗品の密売に使われた密貿易だったという。
さらにパレルモの商業、産業活動においては商人等への上納金を課す体制を作り上げた。
ボスだった時代にマフィアは政府との癒着を強め勢力を伸ばした。
農村部では都市部に住む不在地主が保有している家畜の窃盗も組織化し大規模になっていった。
ニューヨーク警察の
ジョゼッペ・ペトロジーノ
がパレルモに来たとき、そのことをカモッラの構成員がカッショ・フェッロに伝えようとした。
当時マフィアは価値観の違いなどでカモッラを軽蔑していたためカッショ・フェッロはカモッラに会おうともしなかった。
フェッロに対しては1914年までに恐喝、誘拐、放火などで、さまざまな嫌疑をかけられていたが、すべて無罪放免になっている。
イタリアで鉄の知事と呼ばれた
チェーザレ・モーリ
がマフィアを取り締まったときに投獄された。
1922年に起きた殺人事件の首謀者として彼に終身刑の判決が下った。
刑務所に入ってからも外にいる仲間を使い、シチリアに影響力を与えた。
ただ、投獄してまもなく1943年に心臓麻痺で死亡した。
刑務所の独房の壁にはシチリア方言で書かれた彼の言葉が防護ガラスで覆われ何年も残っていたといわれている。
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