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2014年01月01日

サルヴァトーレ・マランツァーノ 旧時代のマフィアのボスで通称「ジュリアス・シーザー」 6か国語に精通した

  
サルヴァトーレ・マランツァーノ

        Salvatore Maranzano
         (1886年7月31日 - 1931年9月10日)
  
 
 シチリア島の犯罪組織コーサ・ノストラの幹部
 6か国語に精通していて、ローマ帝国の
   ガイウス・ユリウス・カエサル
       (通称 ジュリアス・シーザー)
の信奉者でもある。
 
 
    

  
 
 ブルックリンにあるマランツァーノの自室の壁4面すべてに本棚がそなえてあった。
 本棚にはジュリアス・シーザー関連の本で埋め尽くされていたという。
 
 マランツァーノはそれらの本をラテン原語で読むことが出来るといった教養があった。
 
 
 ジョゼフ・ボナンノはマランツァーノを
   禁欲的な知識人
であり、生まれながらの戦士であると表現した。
 
 NYマフィアの旧時代でラッキールチアーノなどの若手が支配するようになる時代の到来までは
   名誉ある地位
あったボスの中のボスであった。
 
 
 マランツァーノはシチリアの
   カステッランマーレ・デル・ゴルフォ
で生まれ、神父であった父と同様に初めは神父を目指していた。
 
 しかし、支配層が政治的な活動で変化していくなか途中で断念してマフィアになることを目指したという。
 

  
 シチリアでは「ドン・ヴィート」と呼ばれたボス
   ヴィト・カッショ・フェロ
の命令により、部下を引き連れ1918年にアメリカに渡った。
 
 
 ブルックリンに定住してカステラマレ地方出身のシチリア移民のリーダーとなった。
 
  
 
   
  
  
 禁酒法時代には
   フランク・コステロ
の手助けにより、密造酒で財をなし勢力を強めていった。

 マランツァーノはイタリアと米国の間を往来し、犯罪組織の国際化と近代化を進めていった。
  
 
 同時期に、ニューヨークで勢力を誇っていた同じシチリア出身の有力ボス
   ジョー・マッセリア
と“ボスの中のボス”の地位をめぐって対立し抗争が発生していった。
 
 
 マランツァーノは当時マッセリアの部下であった
   ラッキー・ルチアーノ
にマッセリアを裏切って配下に入る様に勧誘した。
  
 しかし、ルチアーノはこの裏切りの話に乗らなかったため腹を立ててルチアーノを監禁したうえ拷問にかけ、顔に一生残る傷をつけた。
 
 
 マランツァーノはユダヤ人を毛嫌いしていた。
 このとき、シチリア人だけの組織を作ろうとしていたためシチリア出身のルチアーノに対して、幼い頃からの友人でユダヤ人でもある
   マイヤー・ランスキー
たちも裏切れと要求した。
 このため、金庫番でもあるランスキーの経済活動が組織存立においても重要であったことから、ルチアーノはこの申し出を拒否したとも考えられる。
 
 
 マッセリアの密造酒を運搬途中に強奪するなど密造酒販売を妨害した。
 また、組織の構成員を殺害を実行した。
 
 
 この二人の争いは
   カステランマレーゼ戦争
と呼ばれ組織力の消耗が高まった。
 
 一方でマランツァーノは、ブロンクスとハーレムを牛耳っていたアイルランド犯罪組織の
   ダッチ・シュルツ
とも対立関係にあった。

 
 カルテランマレーゼ戦争中の1930年にマッセリア一家の部下を8人ほど殺害して勝算が見え始めていた。
 
 最終的には1931年4月にマッセリア配下のルチアーノが寝返り、マッセリアがコニーアイランドで殺され収束することとなった。
 
 
 マッセリアが暗殺されてから二週間後にマランツァーノはブロンクスで数百名のギャングを招集して勝利宣言を行った。
 
 ニューヨークの犯罪組織は統一されたのち
   五つのファミリー
に分割した。
 それぞれにボスをおいて管理する方式とする新たな組織運営と規律をメンバーに発表した。
 
 また、非シチリア人のコーサ・ノストラへの加入を禁止すると命じた。
 
 この時に、各地区のファミリーの縄張りを規定したうえで、全米で24のファミリーと提携関係を結んだ。
 
 
 ニューヨークだけは博打や労働運動、港湾等利権が多数あるため構成員が多いことから5つの区間に分けられ、5大ファミリーと呼ばれる形を作った。
 
 
 マランツァーノは全てにおいてシチリア人的で独裁的であった。
 この考えに対し、心の底では世代交代と他国系犯罪組織との友好関係を望んでいたルチアーノはマランツァーノ排除を決心したという。
 
 
 ただ、マランツァーノはその年の5月にシカゴで行なわれたギャングスターの集まりで、ナポリ出身の
   アル・カポネ
のことを、かつてはマッセリア側についていたが、今は親睦を深めたいと願っていると演説をし、カポネをシカゴ・ファミリーのボスと認めた。
 
 なお、この時集まった全員が拍手したという。
 
 
 しかし、裏では、自分がボスの中のボスであるために、危険分子の
   ルチアーノカポネヴィト・ジェノヴェーゼ
等を標的とする殺害者リストを作成し、ダッチ・シュルツの子分
   ヴィンセント・"マッド・ドッグ"・コール
に彼らの暗殺を依頼した。

 
 マランツァーノがルチアーノらを排除しようとした矢先、1931年9月10日にルチアーノの意を受けたシュルツの側近
   ボー・ワインバーグ
   サム・レヴィン
ら四人の殺し屋が警察官に変装してパーク・アヴェニューのThe Helmsley Buildingにあったマランツァーノの事務所を訪れた。
 
 マランツァーノのボディガードを武装解除した偽警察官は、マランツァーノを銃撃してナイフでとどめを刺すと逃走した。
 
 マランツァーノを襲撃した偽警察官の服装をした暗殺者らは逃走の際に事務所に向かっていたコールと鉢合わせした。
 このため、襲撃について知らせたところコールは命からがらその場を逃走した。
 
 
 マランツァーノ暗殺の知らせを受け、48時間以内に全米の30〜40人の
   「口ひげピート」
と呼ばれる旧時代のボスが強制的に引退させられ、引退を拒否した者は殺された。
 
 これが「シチリアの晩祷の夜」と言われる事件である。

 
 ルチアーノはコーサ・ノストラを主導し、各地の犯罪組織のネットワーク化、組織運営の合議制化、制裁機関の設置などを実行して組織の近代化を推進した。
 
 
 ニューヨークを五つのファミリー(五大ファミリー)で統治するというマランツァーノのアイディアをルチアーノは受け継ぎ、実行に移した。
 
  
 
  
 
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posted by まねきねこ at 16:53| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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