ジョージ・ピーボディ(George Peabody)
1795年2月18日 - 1869年11月4日
米国の企業家、慈善家で、ピーボディ研究所の開設者
マサチューセッツ州サウス・デンバー(現在のマサチューセッツ州ピーボディ)に1620年のピューリタンの移民の先祖を持つ家族に生まれたといわれる。
しかし、家族は、金融業ではなくボストンでは中流家庭で決して豊かとはいえない経済状態にあった。
現在、生まれた土地はジョージ・ピーボディ・ハウス博物館になっている。
ジョージ・ピーボディの生涯にわたるビジネスのパートナーで友人の
ウィリアム・ウィルソン・コ―コラン
は著名な銀行家で芸術のパトロンでもあった。
ピーポディは1812年の北米植民地戦争に志願兵として参加し
エリシャ・リッグス(Elisha Riggs)
と戦場で知り合った。
戦争が終了した1814年にピーポディはリッグスから資金的な支援等を受けて生活衣料雑貨の大規模な卸売り事業
ピーポディ・リッグス商会
を設立した。
ピーポディはアンドリュー・ジャクソン大統領(在位1829年-1837年)の2期目の終盤に起きた1837年の恐慌(この後3年間続いた)で、流通網としての機能整備を図る運河建設のうち
チェサピーク・オハイオ運河建設事業
に関し、米国の投資家が手をひいて債券を購入する者がいなくなったため、英国で投資家を見つけるため
チェサピーク・オハイオ運河建設公債
を取り扱うセールスマンとして渡英した。
ロンドンに到着して間もなく英国のロスチャイルド家の当主
に呼び出された。
当時、ネイサンはナポレオン戦争時にロンドン市場で行った
「トラップ的な空売り(ネイサンの空売り)」
が多数のロンドンの貴族階級を資産を奪ったため、詐欺師的行為として嫌悪されていた。
運河建設公債を売るための接待費用はネイサンが負担するので
ロンドンで評判になるような贅沢なもてなし
をしてはどうかと提案した。
ヨーロッパでもアメリカでも“反ユダヤ”“反ロスチャイルド”感情が高まっていたため、ロスチャイルド家としては、直接、表に出るよりも代理人を通して仕事をする方が都合がよいこともあり、その意味を理解したピーボディは、素直にこの提案を受け入れた。
まもなく、ピーボディはロンドンで最も人気のある社交家として知られるようになった。
ロスチャイルドの代理人となったピーボディは、チェサピーク・オハイオ運河建設公債のほとんどを売却して帰国し
6万ドルの手数料
を手付かずで財政難のメリーランド州に寄付して名声を確保した。
この渡英でピーボディはロンドンに輸出入会社を開設し、関係船主の多くに
融資や信用状
を提供する商売を始めた。
その後、ピーボディは英国と米国の輸出入に関する投資ビジネスを専門に扱うようになった。
米国経済は急激な拡大時期を迎えており投資資本の流入を拡大させており、ヨーロッパよりもずっと高い利回りで大量の債券が発行されていた。
ピーボディの会社はこの拡大する市場で利益をあげるのに絶好の立場を確保して急成長した。
ピーボディは独身ままで年老いてくると拡大する事業の後継者を探しはじめたが適任者を見つけるのは難しかった。
1850年、ロンドンのディナーパーティでピーボディはボストンの商人
ジュニアス・モルガン
(大資産家 ジョセフ・モルガンの息子)
と知り合った後
ピーボディ・モルガン商会
をつくって共同経営を始めた。
ピーボディとジュニアスは英国でアメリカのベンチャー企業の社債や州の公債を売ったほかに、南北戦争当時は北部政府の主席財務代理を務めた。
1851年に
ジョージ・ピーボディ商会
を設立、アメリカの鉄道輸送での増大する積み荷の安全保障の要望に対応しようとする。3年後、彼はジニーアス・モルガン(ジョン・ピアポント・モルガンの父親)と提携し
ピーポディ・モルガン商会
を設立した。
これにより両実業家は、1864年のピーボディの引退まで協力して運営に当た多額の利益を生み出してロンドンの金融業者最上部にのし上がっていった。
ピーボディは1864年に金融事業の全てをジュニアスに委ねて引退し、ジュニアスはすぐに社名を
J・S・モルガン商会
と改めた。
ジュニアスの息子
はボストンのイングリッシュ・ハイスクールに通った青年時代にヨーロッパで学んで英国の伝統にどっぷりと浸かった。
ピーボディの後継者として最適な条件を満たしたジョン・ピアモントは、1857年にニューヨークの投資会社
ダンカン・シャーマン商会
に就職した。
7年後、ジュニアスはニューヨークのライバル会社を買収して、ジョン・ピアモントを
ダブニー・モルガン商会
の共同経営者に据えた。
この会社はロンドン本社のニューヨーク支社となった。
1871年、三人目の共同経営者
を迎え、会社は
ドレクセル・モルガン商会
と社名を変えた。
1895年、ドレクセルが死亡したのち社名を
J・P・モルガン商会
と変えている。
ジュニアスの死後、ジョン・ピアモントはロンドンの会社の英国色を強めようと決意し、1898年、息子の
J・P・モルガン・ジュニア
を共同経営者としてロンドンへ送り出した。
J・P・モルガン・ジュニアは、イングランド銀行の理事を務めたロスチャイルド一族の
エドワード・グレンフェル
を共同経営者として迎えて社名を
モルガン・グレンフェル商会
( Morgan, Grenfell & Co.)
に変えている。
現在のドイツ銀行の一部機関になっている。
なお、国際的なユニバーサル銀行であるJPモルガン・チェース、モルガン・スタンレーは、すべてピーボディ銀行にそのルーツを持っている。
金融部門の力を最大化させるべく投資事業展開を押しすすめたモルガン商会は
「トラストのトラスト」
と呼ばれ、最初に米国内において敷設された十数社の鉄道事業を買収し再編成した。
1892年には発明王
を説得してしてGEを設立し電気事業を再編した。
1901年には鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの鉄鋼会社を買収して
USスチール
を設立し鉄鋼業を再編した。
1907年には全米の電話を独占するAT&Tを買収している。
1920年には死の商人
と組んで自動車会社GMを支配している。
その他、ロスチャイルドの代理人でもある金融資本家としてテキサコ、IBM、シティバンク等にも投資を行い巨大化していった。
第一次世界大戦時には、英仏両国政府から戦時国債の
公式代理人
として選任され、戦時国債をアメリカで販売した。
こうして調達されたマネーの大半は、戦時に必要な物資を購入するために米国経済に還流していった。
そのため、モルガン商会は米国における英国の公式貿易代理業者となり国際条約に違反するものも含めてあらゆる戦時物資を買い付けて英国に送っていた。
なお、商品購入契約が結ばれた企業の多くは、モルガンが直接所有するか、持ち株会社を通じて所有するか、モルガン関連の銀行の支配下に入っていた。
モルガン商会は、第一次世界大戦により天文学的数字の利益をあげた。
その後、米国において金融資本による経済支配を完成させていった。
ただ、モルガン商会は、米国経済のダイナミズムな変動が起こる中で運転資金等が回らなくなったため何度か危機的な状況に陥ったがロスチャイルドからの資金援助を受けて持ちこたえた。
なお、1913年、ジョン・ピアモントが死亡したとき、彼の遺産はわずか6800万ドルであった。
また、1943年にジャック・モルガン(J・P・モルガン・ジュニア)が亡くなったときも遺産が1600万ドルだった。
他の大財閥から比べると桁違いに少ない金額であったことからモルガンはロスチャイルドの対等なパートナーではなく、単に代理人に過ぎなかったと一般的には見られている。
ジョン・ピアモントは晩年、意図的に徹底した
反ユダヤ主義者の役割
を演じたといわれている。
この姿勢が、ユダヤ人銀行家とのかかわりを嫌う米国の投資家と借り手の間で非常に優位な立場を確保した。
モルガングループと取引することは、愛国的な行為であると看做され事業には有利に働いた。
特にロスチャイルドから資金を借りることで反ユダヤ感情が高まることを警戒する
米国財務省関係者
は、モルガンから借りることでユダヤ資本による経済支配を嫌った米国民の不満の声を上手く押さえたとされている。
しかし、裏に回ってみれば、資金の流れる道筋には必ずロスチャイルドの手の中にあるという。
モルガン商会から初代ニューヨーク連銀総裁となった
ベンジャミン・ストロング
やジョセフ・C・グルー(太平洋戦争開戦時の駐日アメリカ大使)、ジョセフ・ドッジ(GHQ経済顧問)、アラン・グリーンスパン(FRB議長)など、歴史的・世界的な要人が輩出されている。
1862年、ピーポディはロンドンの貧しい人たちを救済し、彼らに質の良い住まいを提供しようという目的で
ピーポディ慈善基金
をロンドンに設立した。
今日のピーボディ・トラストである。
ピーポディトラストによる最初の貧しい芸術家と労働者のための住宅は、1864年2月ホワイトチャペルのコマーシャル通りにオープンした。
それらの住宅は建築家の
H・A・ダービシャー
が従来のゴシックのスタイルを打ち破る魅力的な装飾をつけて設計した。
ダービシャーの建築が注目されそれ以後注文が殺到したという。
ピーポディは、近代の慈善事業の祖として知られている。
その後、アンドリュー・カーネギー、ジョン・D・ロックフェラー、ビル・ゲイツ、その他の人々によって受け継がれる事業の先鞭をつけた。
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