ヴィンセント・マンガーノ
(Vincent Mangano)
1888年3月28日−1951年4月19日
NY市の暗黒街を支配する5大ファミリーの一つである
マンガーノ・ファミリー
(後 ガンビーノ・ファミリー)
のボスでシチリア出身
コミッションの指示を履行し1931年から1951年までブラウンズヴィル・ボーイズ(Brownsville Boys)とも呼ばれた
マーダー・インク(殺人会社)
を率いていた構成メンバーのボスのひとりといわれている。
なお、生まれた時の名前は
ヴィンチェンツォ・ジョヴァンニ・マンガーノ
(Vincenzo Giovanni Mangano)
だった。
また、ブルックリン・ニュースペーパーが名付けた、「処刑人 (The Executioner) 」という渾名で知られている。
マーダー・インクは1920年代後半に
がシャピロ兄弟に復讐する為に結成した組織が原型。
その後、ルイス・バカルターが1930年代初頭に
とともに「緩やかな」同盟を結成した。
それと共にベンジャミン・シーゲル、マイヤー・ランスキーはマーダー・インクを結成した。
バカルターはトップに就任し、配下の
の指揮の元で数百人のギャングやマフィア幹部らの殺害を実行したといわれる。
マンガーノの弟であるフィリップ・マンガーノは彼の組織の忠実な片腕となり、後に、ファミリーの副ボスとなった。
マンガーノは港湾区域を支配しそこからの収入を組織の主な収入源としていた。
マンガーノと彼の仲間は船会社が上納金を支払わない場合は港での貨物の積み込み・積み下ろし作業を妨害すると脅迫していた。
また、マンガーノは労働組合を組織しドックで働いていた労働者らを加入させたうえ、組合費としてその作業日ごとに金を巻き上げていた。
その結果、マンガーノらはどの船に何が積まれているのか正確に把握しており、それらの中から何を盗むべきか選ぶことができた。
マンガーノと、親友であり共に港湾区域を支配していた
エミール・カマルダ
(Emil Camarda、1941年殺害)
は「シティ・デモクラティック・クラブ」というクラブを設立した。
このクラブは表向きにはアメリカ人の基本的価値観を振興するのが目的であった。
しかし、裏では非合法な活動を行っていた。
このクラブはイタリア人ギャング達の命令で殺人を請け負っていたマーダー・インクのメンバーらの主な会議場所として使用され、ヴィンセント・マンガーノの副ボスだった弟のフィリップ・マンガーノやアルバート・アナスタシア等はしばしばクラブに集まっていた。
マンガーノはアナスタシアら新しい世代のマフィア達には毛嫌いされていたシチリア流の
マフィアの古いしきたり
にこだわるボスのうちの1人であった。
その結果、アナスタシアはラッキー・ルチアーノやフランク・コステロそしてルイス・バカルターらとの親交を深めるようになっていった。
マンガーノはこうしたアナスタシアの行動に対し憤慨し不信感を抱くようになっていった。
その結果、2人はしばしば口論し喧嘩するようになり、仲裁に入った者達により、暴力に発展することがないように2人は引き離されていた。
マンガーノとアナスタシアは決定的な決裂に至るまでの20年間を共に行動してきた。
アナスタシアの手によりマンガーノは最期を迎えることになったと信じられている。
1951年になるとアナスタシアはマンガーノが自分の殺害を企てていることを耳にし、自己防衛の為に先手を打つ事にした。
1951年4月19日にブルックリンのシープヘッド湾近くでフィリップ・マンガーノが殺されているのを発見された。
同日以降、ヴィンセント・マンガーノも跡形も無く消え去ったがその後も、彼の死体は発見されていない。
捜査当局による聴取ではマンガーノ殺害を決して認めようとはしなかったという。
ただ、コミッションによる聴取ではアナスタシアはマンガーノが自分を殺そうと企んでいたと主張した。
それをフランク・コステロが援護したことにより、他のファミリーのボス達を説得することに成功した。
そうして、アナスタシアはマンガーノ・ファミリーの新しいボスとして認められた。