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2015年01月01日

カルロス・マルセロ(Carlos Marcello) 自称「トマトの販売人」1947年から1983年までニューオーリンズ一家のイタリア系アメリカ人ボス

カルロス・ジョセフ・マルチェロ(Carlos Joseph Marcello)
   1910年2月6日 - 1993年3月3日
 1947年から1983年までニューオーリンズ一家のイタリア系アメリカ人ボスであった。
 自称トマトの販売人。
 アメリカで最も古い歴史を持つイタリア系犯罪組織マフィア・ファミリーのゴッドファーザー
 ニューオーリンズを本拠地にルイジアナ州、テキサス州などの都市を支配した。
 麻薬取引ではメキシコ湾岸も勢力下において薬物の流通網を支配した暗黒街の顔役として知られた。
 アメリカン・マフィアにおける役割に加え、暴力団対策法(Racketeer Influenced and Corrupt Organizations Act)の起草に携わった弁護士のG・ロバート・ブレイキーらは
   カルロス・マルチェロ
が、1963年の
   ジョン・F・ケネディ大統領
の暗殺に共謀したと主張していることでも悪名高いと主張している。
 これは、組織犯罪の権力と数十億ドル規模の利益を脅かした連邦政府による捜査と訴追への報復という。
 マルチェロは1910年2月6日、シチリア移民の両親
   ジュゼッペ・ミナコーレ
   ルイジア・ミナコーレ
の息子として、フランス領チュニジアのチュニスで本名カロジェロ・ミナコア(Calogero Minacore)として生まれた。
 マルチェロは家族と共に1911年にアメリカ合衆国に移住し、ニューオーリンズ郊外のジェファーソン教区、メタリー近郊の荒れ果てた農園に定住した。
 父親は、当時働き始めた砂糖農園の監督者と混同されるのを避けるため、別の姓を名乗った。
 監督者もミナコーレであり、マルチェロという愛称を選んだ。
 家族は他の姓をすべて改名し、カロジェロ・ミナコーレは
   カルロス・ジョセフ・マルチェロ
となった。
 彼にはピーター、ローズ、メアリー、パスカル、ヴィンセント、ジョセフ・ジュニア、アンソニー、サルバドール・マルチェロの8人の兄弟姉妹がいた。
 若き日のマルチェロはフレンチ・クォーターで軽犯罪に手を染めた。
 後にニューオーリンズ周辺の小さな町々で武装強盗を実行した10代のギャング団の首謀者として投獄さた。
 当時、地元紙は彼をチャールズ・ディケンズの小説「オリバー・ツイスト」の登場人物フェイギンになぞらえた。
 この有罪判決は後に覆された。
 ただ、翌年、暴行と強盗で有罪判決を受け、ルイジアナ州ウェスト・フェリシアナ郡の州立刑務所に9年の刑を宣告された。
 5年後に釈放された。
 身長は160cmほどだが凶暴なことで有名だった。
 14歳で学校を辞めたので英語力も数学力もほとんどなかった。
 しかし、肉体、精神力は優れていたため、組織を操り、検事、判事、政治家を支配することが出来た。
 人を操る能力が優れていたようだ。
 他の兄弟はみなアメリカの市民権を持っていたが、なぜかカルロスだけは取得していなかった。
 そのため、太平洋戦争では、外国籍であったため徴兵を免れることが出来た。
 徴兵された他の弟たちは世界大戦中にヨーロッパの戦地に投入されたという。
 なお、弟たちもカルロスと同じく、ギャンブル場を経営するなど組織犯罪に絡んでいた。
 1938年、マルチェロは10キロ(23ポンド)を超えるマリファナの販売の容疑で逮捕、起訴された。
 マルチェロは再び長期の懲役刑と76,830ドルの罰金を科せられたにもかかわらず、ヒューイ・ロング元知事との取引のおかげで、10ヶ月足らずの服役で済み、罰金は400ドルにとどまった。
 釈放後、マルチェロはニューヨーク市でジェノベーゼ一家のボス
と関係を持つようになった。
 当時、コステロはニューヨーク市からニューオーリンズへの違法スロットマシンの輸送に関与していた。
 マルチェロは資金援助を行い、スロットマシンが地元の店舗に設置されるよう手配した。
 1947年末までに、マルチェロはルイジアナ州の違法賭博ネットワークを掌握していた。
 また、結婚を通じてトダロ一家と関係を持つようになって間もなく、ジェノベーゼ一家の仲間である
と手を組み、ニューオーリンズ地域の主要カジノから資金を横領していた。
 シカゴ・アウトフィットの元メンバーによると、マルチェロはフロリダの不動産取引で「力」を提供する見返りに、ラスベガスのカジノからかすめ取った金の一部も割り当てられていたという。
 この頃、マルチェロは、前任者の
   シルヴェストロ・カロラ
がシチリア島へ追放された後、ファミリーのボスと委員会の承認を得て、ニューオーリンズ・マフィアの「ゴッドファーザー」に選ばれた。
 彼はその後30年間この地位に就いた。
 1975年の恐喝裁判では、2人の証人がマルチェロをニューオーリンズ犯罪シンジケートの「ゴッドファーザー」と称した。
 マルチェロは1951年1月25日、米国上院の組織犯罪に関するキーフォーバー委員会に出席し、憲法修正第五条について152回にわたり議論した。
 委員会はマルチェロを「国内最悪の犯罪者の一人」と呼んだ。
 マルチェロは、他の地域におけるマフィアの干渉から一族が長年守り続けてきた強固な独立の伝統を引き継いだ。
 彼は、他の一族のマフィアが事前に許可を得ずにルイジアナ州を訪問することを禁じる政策を制定した。
 1959年3月24日、マルチェロは組織犯罪を調査する米国上院の
   マクレラン委員会
に出席した。
 委員会の主任顧問はロバート・F・ケネディで、兄の
   ジョン・F・ケネディ上院議員
も委員を務めていた。委員会の質問に対し、マルチェロは憲法修正第五条を引用し、自身の経歴、活動、仲間に関するいかなる質問にも回答を拒否した。
 それ以来、マルチェロはケネディ家の公然たる敵となった。
 ニューオーリンズ犯罪一家は、ニューオーリンズ郊外アボンデールにあるモスカのイタリアンレストランで頻繁に会合を開いていた。
 そこはマルチェロが所有していた建物だった。
 マルセロは黒人を差別しており人間以下の存在と思っていたような逸話がある。
 黒人初のニューオーリンズ市長になった
   アーネスト・モリアル(Ernest Nathan Morial)
のことを「黒ンボウ」と言っていたことからも良く分かる。
 1979年にFBIのおとり捜査官の録音で彼がその様に発言したのが残されているという。
 また、有名な黒人開放活動家の
   マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
を軽蔑しており、人種差別主義者KKKの支持者でもあった。
 18歳にはマルセロは家を出ており、強盗をやっていた。
 1929年には3人の仲間とつるんで銀行強盗で7000ドル奪うことに成功した。
 しかし、実家に金を隠したところ弟のピーターが警察に通報してしまった。
 この通報でルロスは警察に捕まり新聞に顔写真が載ってしまった。
 それでもカルロスは強盗業を続けたという。
 このことから親や兄弟にも秘密や隠し事は教えてはいけないということを学んだという。
 20歳のとき重窃盗罪で9〜12年の実刑判決を受けるが、父
   ジョゼフ・マルセロ
が州議会議員と親しい関係を結び、親しくなったところで長男を刑務所から出す手段をもちかけた。
 この努力により、カルロスは4年服役しただけで出所できた。
 出所後カルロスはバーを買い取りそこで黒人相手に、酒やマリファナなどを売った。
 カルロスはこの地域を縄張りとするマフィアに上納金を払っていたので店に警察は近づかなかった。
 なお、この店は弟のピーターに任せていたという。
 カルロスは背は低いが、でかい黒人を力でねじ伏せるほど腕力があり、喧嘩は強かった。
 このため、たまに酒に酔った客が暴れたりすると、カルロスが外へつまみ出したという。
 1936年9月6日にジャクリーン(ジャッキー・トダロ)と結婚した。
 結婚後すぐに、ジュークボックスとピンボール機を貸し出す会社を始めた。
 1938年3月に客を装ったFBIの捜査官にマリファナを売ってしまい逮捕され
   アトランタの連邦刑務所
に入った。
 出所したらマリファナと酒の販売をやめてジュークボックスの仕事に専念した。
 さらにフランク・コステロの友人の
   ダンディ・フィル・カステル
と親しくなりスロットマシーンの貸し出し事業も始めた。
 当時、スロット事業は違法なので地元の警察に賄賂を送ることが必要だった。
1940年ごろに
に組織への忠誠が認められ、ルイジアナでカジノのパートナーとなった。
 1945年12月4日に
   ビバリー・カントリー・クラブ
という本格的なカジノをオープンさせ成功させた。
 カジノの中のナイト・クラブのショーでは
   ジョー・E・ルイス
   ソフィー・タッカ
ら大物タレントが出演して会場を盛り上げたという。
 この頃にはジェファーソン郡の警察と政治家を操るほどの力を持っていたといわれている。
 38歳のときに前ボスの
   サム・カローラ(Silvestro Carollo)
が国外追放を受けたため、事実上のルイジアナのボスになった。
 キューバ革命協議会(CRC)のニューオーリンズ支部の
   セルヒオ・アルカチャ・スミス
に対して、カルロスは資金を提供し
   フィデル・カストロ
が打倒されたとき、キューバにおける事業許可を与えるという約束をしたといわれている。
 FBIのおとり捜査官のジョゼフ・ハウザーにCIAとマフィアが共同して行なっていた
   カストロ暗殺計画
には、自分も加わっていたと語っている。
 カルロスは
と親しく2人ともキューバ人亡命者グループに資金援助していた。
 このため、「カストロ暗殺計画」に直接関わっていなくても情報を知っていた可能性は高い。
 1960年の大統領選でカルロスは
に50万ドルを献金し、
   リンドン・B・ジョンソン
には年間少なくとも5万ドルは手渡したと推定されている。
 当然、その見返りとして
   犯罪を取り締まる法案
を委員会でつぶすのに協力したという。
 そのため、リンドン・ジョンソンの力を借りて、カルロスはダラスで思い通りに事業を展開することができたといわれている。
 カルロスはアル・カポネの元シェフだった
   プロヴィノ・モスカ
という男をシカゴから呼び寄せて料理を作らせたという。
 彼の料理があまりにもうまかったので、彼と家族のために、家を建ててやり、レストランの経営も任せたという。
 その後、ウエストバンクで最も人気のあるイタリアンレストランになった。
 西海岸で映画産業を支配下に組み込んだギャング、
とは交友関係にあった。
 両親はシチリア出身で、結婚後すぐに仕事を求めチュニジアへ渡り、そこでカルロス・マルセロが生まれた。
 さらに良い生活を求め、ニューオーリンズへ行き父ジョゼフ(旧名ジュゼッペ)は、そこで農夫として働いた。
 ジョゼフとルイーズ(旧名ルイジア)のマルセロ夫婦はがむしゃらに働いたため、7人の息子と2人の娘を育てることが出来た。
 カルロスは小さな子供の頃から親の農作業を手伝い、働き者の若者に成長したという。
 犯罪に関わるようになり14歳で学校をやめて、フレンチ・クォーターで軽犯罪を繰り返し犯した。
 1938年、28歳の時、マリファナ23ポンド(約10キログラム)を販売した罪で逮捕され、罰金7万6830ドルを科された。
 長期の懲役刑に直面しましたものの
   ヒューイ・ロング知事
との取引により、わずか10ヶ月で済んだ。
 この苦難をきっかけに、ニューヨーク市の
のボスでフランク・コステロと関わりを持つようになり、コステロの下で働くようになった。
 1947年末までに、マルチェロはルイジアナ州の
   違法賭博ネットワーク
を掌握するようになっていた。
 彼はまた、ニューヨークのマフィアの仲間である
と手を組み、ニューオーリンズ地域の主要カジノから上納金として金を巻き上げていた。
 シカゴ・アウトフィットの元メンバーによると、マルチェロはフロリダの不動産取引で「力」を提供することと引き換えに、ラスベガスのカジノからかすめた金の一部も割り当てられていたと明かした。
 この頃、マルチェロはサム・カロロ(Silvestro Carollo)がシチリア島へ追放された後、
   ファミリーの幹部
   全米犯罪シンジケート
によってニューオーリンズ・マフィアの「ゴッドファーザー」に選ばれていた。
 彼はその後30年間この地位に留まった。
 1951年1月25日、マルチェロは米国上院の組織犯罪に関する
   キーフォーバー委員会(Kefauver hearings)
による聴聞会で証言を求められたが、ほとんどの質問に対して憲法修正第五条を152回行使し証言拒否をした。
 ロバート・F・ケネディは、兄のジョン・F・ケネディ上院議員と共に委員会の主任顧問を務めた。
 委員会ではマルチェロを「国内最悪の犯罪者の一人」と蔑んだ。
 ジョン・F・ケネディが大統領に就任すると、弟のロバート・ケネディを米国司法長官に任命した。
 この二人は、マルセロが偽の出生地であるグアテマラへの強制送還を目指した。
 1959年のマクレライン委員会では、ロバート・ケネディと対決した。
 それ以前に国外追放処分を命じられていたが従わなかった。
 1961年4月4日、ロバート・F・ケネディ司法長官が率いる米国司法省は、ニューオーリンズの移民当局への通常の訪問だと思い込んでいたマルセロを逮捕したうえ、グアテマラへ強制送還した。
 その後、マルセロはニューオーリンズへの帰還に苦労した。
 また、その途中で多くの怪我を負った。
 ただ、2ヶ月後にはニューオーリンズに帰還している。
 こうして、彼は政府による強制送還の試みに抵抗することに成功した。
 1963年11月、マルセロは
   「偽のグアテマラ出生証明書を取得して米国政府を欺く共謀」
   「カルロス・マルセロを国外追放する米国政府の権利行使を妨害する共謀」
の罪で裁判にかけられた。
 同月中に両容疑とも無罪となった。
 1964年10月、マルセロは「陪審員(ルドルフ・ハイトラー)を操作し、政府証人(カール・ノル)の殺害を企てることで司法を妨害する共謀」の罪で起訴された。
 マルセロの弁護士はハイトラーへの賄賂を認めた。
 ただ、賄賂とマルセロを結びつける証拠はないと主張した。
 ノルはこの事件でマルセロに不利な証言を拒否したため、マルセロは両容疑とも無罪となった。
 1966年9月、マルチェロはニューヨーク市クイーンズ区にある
   レストラン「ラ・ステラ」
に召喚され、マフィアの秘密裁判で自己弁護を行った。
 「リトル・アパラチン」として知られるようになったこの会合で、警察はレストランを急襲した。
 マルチェロと、会合の「裁判官」であったコーザ・ノストラのコミッショナー
を含む12人のマフィア幹部を「既知の犯罪者との交際」の容疑で逮捕した。
 ただ、急襲が行われる前にマルチェロは自己弁護に成功し、「裁判」に勝利していた。
 保釈されたマルチェロはニューオーリンズ空港に到着すると、FBI捜査官と記者たちに「ここのボスは私だ」と挨拶した。
 FBI捜査官
   パトリック・J・コリンズ
を殴りつけて自らの主張を証明した。
 その後、マルチェロは再び連邦刑務所に収監された。
 最初の裁判では評決不一致に終わったが、再審で有罪判決を受けた。
 彼は懲役2年の判決を受けたが、6ヶ月未満で服役した。
 1966年9月22日、ニューヨークのクィーンズのラ・ステラ・レストランで
らと会議をしているところを警察に見つかり逮捕された。
 翌日13人全員で130万ドルの保釈金を払い保釈された。
 カルロスは自分はマフィアではないし、付き合いもないと主張していたが、カルロスはマフィアのボスであることがルイジアナの司法当局とFBIに確信を与えた。
 このときの会議は、ルイジアナのカルロスの後継者についての話し合いだったと言われている。
 カルロスはルイジアナでは政治家に金を送ることで、相当な政治力を持っていた。
 そのため、州税務局をも牛耳っており、自分の思うように事業を進めていった。
 1960年代、マルチェロが頑なに新メンバーの加入を拒否した。
 このため、組織は全米に数百人の仲間を抱えるわずか4、5人の「メイドマン」にまで縮小した。
 しかし、連邦捜査局(FBI)は当時、メイドマンは20人強、あるいはマルチェロと非常に親しい仲間同士が20人以上おり、ニューオーリンズ・ファミリーの正式な一員とみなされていたと推定している
 ファミリーは規模は小さかったものの、マルチェロが州および連邦の判事、検察官、知事、上院議員、労働組合幹部、そして法執行官と政治的な繋がりを持っていた。
 このため、大きな影響力を持っていた。
 ニューオーリンズ・ファミリーのメンバーは、オーリンズ郡の地方検事
   ジム・ギャリソン
の保護を受け、ギャリソンはマフィアに対する84件の訴訟を却下した。
 その中には、殺人未遂1件、誘拐3件、過失致死1件が含まれていた。
 さらに、マルチェロはシカゴ・アウトフィット
やタンパ・マフィア一家の
 カンザス・シティ・マフィア一家の
   ドミニク・ブルックリアー
 フィラデルフィア・マフィア一家の
など、全国の他のマフィアのボスたちと密接な関係を保っていた。
 ニューオーリンズ・ファミリーは、当初はマルセロがミシシッピ州ハリソン郡の保安官
   リロイ・ホッブズ
と関係を持っていたことから、
   ディキシー・マフィア
とも密接な関係を持っていた。
 マルセロは、ディキシー・マフィアの収益の一定割合と引き換えに、ディキシー・マフィアがニューオーリンズで活動することを許可した。
 ただし、ディキシー・マフィアのメンバーは当局の監視を避け、マルセロの組織に介入しないことを条件としていた。
 マルセロの支配下で、ファミリーは借金の回収と殺人請負を
   ディキシー・マフィア
   アウトローズ・モーターサイクル・クラブ
のメンバーに委託していた。
 カルロスの両親がシチリア出身で赤ん坊のときにニューオーリンズに来たもののアメリカの市民権を申請してなかったためは1961年にグアテマラへ追放された。 
 1961年4月4日にINS(移民局)の事務所に行くと、マルセロはグアテマラ市民でビザが切れていると言われ、ろくに荷物も金も持たされないまま、アメリカを追放された。
 手錠をかけられ旅客機でグアテマラへ送られた。
 カルロスがいなくなった後でロバートは「マルセロがアメリカにいないことを、非常にうれしく思う」と述べた。
 このことについてカルロスは「やつらは俺を誘拐して、グアテマラに捨てやがった」と言った。
 この追放はカルロスにとっては、コケにされ名誉を傷つけられたものだった。
 ケネディは選挙のときマフィアに対して借りを作っておきながら、大統領になった後でマルセロをグアテマラへ強制送還した。
 このことでケネディ家はマフィアを裏切り、宣戦布告したことになるがこのことは、以前マルセロはケネディよりも
   リンドン・ジョンソン
を支持していたから、そのことが原因ではないかという話もある。
 カルロスは中米のエルサルバドルとホンデュラスでは、ジャングルの中を歩いたり散々な思いをしたという。
 2ヶ月間中米で過ごし、その後、偽造入国ビザと、航空券を手に入れアメリカへ再入国している。
 アメリカへ帰国すると、すぐにINSに再度強制送還を命じられた。
 これに対しカルロスの弁護団はすぐに控訴した。
 マルセロ側はロバートを事前に通告もせずに偽造書類を使い国外追放処分したことを違法行為だと告発した。
 1976年に詐欺師でペテン師の
   ジョゼフ・ハウザー
と知り合いになった。
 のちにハウザーが不正取引容疑で捕まったとき、彼は自分の減刑と引き換えに政府が行なっていたカルロス・マルセロに対するおとり捜査作戦BRILAB作戦に協力し、カルロスを有罪にすることになる。
 1978年のジョン・F・ケネディ暗殺事件に関する調査において、下院暗殺特別委員会は、
   ジャック・ルビー
によるリー・ハーヴェイ・オズワルド殺害を、組織犯罪が暗殺に関与した可能性を疑う主な根拠として挙げた。
 HSCAは調査の中で、「リー・ハーヴェイ・オズワルドとジャック・ルビーの両者が、マルチェロの犯罪一家または組織と、たとえ希薄ではあっても関係のある人物と関係があるという確かな証拠」の存在を指摘した。
 報告書には、「委員会は、マルチェロがジョン・F・ケネディ大統領を暗殺する動機、手段、機会を有していたと判断した。
 ただ、マルチェロの共謀を直接証明することはできなかった」と記されている。
 したがって、マルチェロはジョン・F・ケネディ殺害の容疑から逃れることができた。
 1979年ごろには
   チームスター労組(Teamsters)
を牛耳っていたシカゴのボスでカルロスと仲の良い
   ジョゼフ・アイウッパ(Joseph Aiuppa)
と取引をし、月に100万ドルの利益を得ようとしていた。こ
 カルロスが刑務所に入った頃、弟の
   アンソニー
   ヴィンセント
   サミー
は一家の事業の運営に専念していた。
 カルロスが捕まったおかげで、カルロスの政治的影響力が崩れ、暗黒街での地位も落ちたせいで弟たちは必死だった。
 カルロスが服役したことで、彼の組織は以前の力を失い、彼の政治的影響力もほぼ崩壊した。
 このため、暗黒街での評判も落ちてしまった。
 さらに、弟のサミー(サルヴァトーレ)が麻薬密売のマネーロンダリングの容疑で捕まるという事件もあった。
 その後、ニューオーリンズには
ガンビーノ一家やフィラデルフィアの
のブルーノ=スカルフォ一家が進出してきた。
 ハウザーとFBIは保険会社の人間を装いカルロスをはめていった。
 事務所や電話を24時間態勢で盗聴し、録音をした。
 このおとり捜査作戦はFBI史上マフィア大物を狙う最大の成功を収める作戦だった。
 それまでカルロスは自分はマフィアではないし、組織犯罪とは関わりはないと言っていた。
 なお、自分はマフ(マフィアのメンバー)だと言っていることも録音された。
FBIによるおとり捜査の事実を知らされたときカルロスは相当ショックでそのことを認めたくなかったという。
 特別捜査官の
   ハロルド・ヒューズ
がカルロスの事務所を訪れ、おとり捜査官の名前を言うと「ちがう、彼らは私の手下だ」と言った。
 自分が信じきっていた人間がFBIだったということで相当落ち込んだという。
 カルロスは
   ラリー・マンタギュー
   マイケル・ワックス
の2人のおとり捜査官とハウザーをすっかり信じきっており、身近に置きすぎた。
 このため、自分のやっているほとんどのことを、テープに盗聴されて裁判では証拠として流されてしまった。
 1981年、マルチェロとジョン・J・マケイゼン知事の元補佐官
   オーブリー・W・ヤング
 エドウィン・エドワーズ知事の元行政委員
   チャールズ・E・ローマー2世
 その他2名の男が、ニューオーリンズのルイジアナ州東部地区連邦地方裁判所で、共謀、恐喝、郵便詐欺および電信詐欺の罪で起訴された。
 起訴内容は、州当局者に賄賂を渡して5名に数百万ドルの保険契約を結ばせる計画だった。
 この容疑は、ブリラボとして知られる連邦捜査局の捜査の結果である。
 1981年の夏にニューオーリンズで裁判が行なわれ、FBIが録音したテープが法廷で流された。有罪判決を受ける。ニューオーリンズで有罪評決を受けた翌日にロサンゼルスで起訴された。
 1981年11月30日にロサンゼルスの法廷に出廷するが、ここでも自分が詐欺師のハウザーにだまされた内容のテープが流されるのを聞くという屈辱に耐えなければならなかった。 
 12月11日に評決が出た。
 連邦刑務所に10〜20年の判決を言われた。
 12月15日にはニューオーリンズでBRILAB裁判の判決を受け、7年の懲役と2万5000ドルの罰金刑を言われた。
 このことからFBIのBRILAB作戦は大成功となった。
 なお、モリー・シアー連邦地方判事は、州政府の最高レベルの腐敗を証明するものとして秘密裏に録音された会話の証拠採用を認めた。
 なお、マルチェロとローマーは有罪判決を受けたが、ヤングと他の2名は無罪となった。
 1982年1月、マルチェロは連邦刑務所で7年の刑を宣告された。
 ニューオーリンズで有罪を受けた後は、カルロスの事務所タウン&カントリーに訪れる訪問者は激減し、ルイジアナ州やマフィア内における影響力も崩れた。悪名高い詐欺師ハウザーに簡単にだまされたことは、ルイジアナの民衆の笑いのネタとなってしまった。
 他にも連邦判事の買収をはかった共同謀議罪もあり、72歳のカルロス・マルセロは合計17年の懲役刑を受けた。
 カルロスは最初スプリングフィールドの医療刑務所に入った(1983年6月)。
 彼は癌に侵されていて、その治療のため1年近く医療センターにいた。
 ここは正規の刑務所に比べ医療刑務所ということで多くの面会者を迎えられるうえ、電話も多く掛けられ、外の世界と商談も出来た。
 健康状態が良くなるとテキサス州テキサカーナ(Texarkana, Texas)にある連邦施設に移された。
 ここでは面会や電話も制限された。
 この頃、トラフィカンテがカルロスの命を狙っているという情報もあった。
 1986年2月19日にテキサス州シーゴヴィル(Seagoville, Texas)刑務所に移る。
 ここはテキサカーナより監視のゆるい環境だった。
 1986年6月2日にはさらに監視体制がゆるくダラスから数マイルしか離れていないフォートワースの刑務所に移った。
 この刑務所に移れたのは、マルセロが、残っていた政治力を使ったという噂がある。
 なお、カルロスはここでは模範因だったという。
 1987年5月21日にテキサカーナの連邦刑務所に連行される。
 1987年にテキサカーノ刑務所にいた78歳のカルロスに面会した人たちは、カルロスがアルツハイマー病を患っているように思えたという。記憶力は衰え、方向感覚を失ったりしていたという。
 その後も、小さな脳卒中に見舞われるなどした。 
 釈放後の1993年、ルイジアナ州メテリーでこの世を去った。


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posted by まねきねこ at 16:07| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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