サント・トラフィカンテ・ジュニア(Santo Trafficante Jr.)
1914年11月15日 - 1987年3月17日
フロリダ州タンパ出身で同地を支配したマフィアのボス
ボスだった同名の父が1954年に胃癌で死去したのを受けて後を継いだ。
親しい者からは「ディ・オールドマン」と呼ばれた。
トラフィカンテはマフィアのボスの中でも
最も用心深い人物
だったため、マフィアの大物ボスだがアメリカの刑務所に入ったことは生涯で1度もない。
ニューオーリンズを本拠地とするマフィアのボス
の会議室へ行き話をする際にもマルセロは安心して良いと言ったが、用心してお互いの耳元でささやきながら話を進めたという。
なお、実際その会議室にはFBIの盗聴器が仕掛けられていたが録音は出来ていないと言われる。
キューバでは米国政府の傀儡政権である
フルヘンシオ・バティスタ
が軍事クーデターで政権を奪取して大統領となった。
バティスタ政権下だった1940年代50年代にバハマでカジノ経営をして米国からの観光客を相手に莫大な利益を上げ暗黒街で頭角を現した。
この頃にNYマフィアのラッキー・ルチアーノの右腕として活躍していた
らマフィアの大物との面識が出来て付き合いが始まった。
その後、カストロがキューバで政権を取るとカジノはすべて閉鎖され、経営者のトラフィカンテは投獄された。
マフィアの弁護士
フランク・ラガーノ
の取引によって出所した。
好景気に沸くフロリダに戻り南部を拠点にし、ビジネスの拡大を図っていった。
トラフィカンテ一家はキューバでの関わり合いからテキサス州、ニューオリンズ、シカゴのマフィア・ファミリーと盟友関係にあった。
トラフィカンテはソ連との関係が強いキューバの共産化に対しCIAと手を組み
フィデル・カストロ暗殺計画
トラフィカンテはカストロの革命が成功する前にキューバでカジノを経営して莫大な利益を上げており、カストロ政権がカジノを閉鎖したため収入源を失っていた。
そのためCIAのカストロ暗殺への協力は望むところであった。
なお、カストロが暗殺されていたらCIAとの密約で工作に協力する見返りとしてトラフィカンテがキューバの暗黒街のボスになる予定だったという。
トラフィカンテがキューバで釈放されたのは
の手柄だったと
が後に話している。
トラフィカンテはキューバに残した手下の
キューバ人
を工作員として仕立てCIAが用意した数錠の毒薬を使わせカストロを殺害しようとしたものの失敗した。
1957年11月14日にアメリカ合衆国ニューヨーク州の町オウェゴ(Owego)の郊外
アパラチン(Apalachin)
でNYのジェノヴェーゼ・ファミリーのボスである
が全米のボス達とコミッションを開く事を提案した会議のとき警察に踏み込まれ逮捕されている。
キューバの亡命者の
ホセ・アレマン(Jose Aleman)
は1978年の下院暗殺調査会でトラフィカンテが1962年に
は1964年の大統領選では再選されない。
それは
「ケネディは「ヤラレル」からだ」
と話していたと証言している。
後の聴聞会でも同様の話しをしたもののトラフィカンテやマフィアからの報復を恐れ「ヤラレル」とは64年の大統領選では共和党の票のことを言っていたのかもしれないと自分の発言の意味を変えて話したという。
なお、アレマンは下院特別委員会で証言した後、自らや家族等がマフィアに殺されるという恐怖心から1983年8月1日に自殺している。
トラフィカンテは1976年にフロリダで殺害されたマフィア組織シカゴ・アウトフィットの幹部
の死にも関与したとも言われている。
トラフィカンテは晩年心臓を患い、1987年にテキサス州ヒューストンで死去した。
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