Carmine Galante
(1910年2月21日 - 1979年6月12日)
イタリア系犯罪組織コーサ・ノストラの幹部
ボナンノ一家のボス
渾名はリロ(Lilo)、シガー(Cigar いつも葉巻を銜えていたため)。
身長が160cmそこそこしかない小男であったがボナンノ一家の創設者
ジョゼフ・ボナンノ
から凶暴性と気の強さを認められ、運転手から頭角を現し認められて副ボスの座まで上り、ボナンノの引退後は当時の一家のボスの
フィリップ・ラステリ
が就任したが1974年に逮捕・収監されたのを機にボスの座を奪い取った。
フィリップ・ラステリ
犯罪行為で刑務所に収監されるとその地位を奪取して就任した。
シチリアのカステッランマーレ・デル・ゴルフォ出身の漁師の息子としてニューヨークのイースト・ハーレムに生まれた。
11歳でストリートギャングになり、犯罪に手を染め1930年にはブルックリンで
トラック強奪
を計画したが実行時に警官に取り押さえられた。
その際、逃げようとして警官に発砲して負傷させたため懲役12年半の判決を受けている。
1939年に釈放された。
その後、約1年間ボスに就任した
ヴィト・ジェノヴェーゼ
の配下にあったヒットマンを暗殺現場までの輸送に携わっている。
また、ジェノヴェーゼの命で1943年に反マフィアのジャーナリスト
カルロ・トレスカ
の殺害に関与したといわれる。
敵対勢力であるルチアーノ一家のアンダーボス
フランク・コステロ
らの共謀で捜査当局に麻薬取引の情報が流れ1962年に麻薬取引の罪で収監され、懲役20年の判決を受けている。
収監されたルイスバーグ刑務所では、全米各地から収監されているマフィア組員の間の絶対的な支配者として君臨した。
当時、ニューヨーク・マフィアの最大の実力者であるガンビーノ一家のボス
カルロ・ガンビーノ
の地位に挑戦するべく行動を開始し、ガンビーノ一家のメンバーの少なくとも8人の暗殺に関与したといわれている。
1972年に刑務所を出所したのちにボスの地位を奪って就任したものの、1977年10月には一度拘束されるが、マフィア御用達として悪名高かった
ロイ・コーン
の尽力もあり、1979年3月に5万ドルの保釈金により釈放された。
ガンビーノは1976年に病死し、その後を継いだ
ポール・カステラーノ
ジェノヴェーゼ一家のボス
フランク・ティエリ
フロリダのサント・トラフィカンテらと共謀して、ギャランテの暗殺を計画、獄中にあったボナンノ一家の元ボスであるラステリが腹心の子分のなかから暗殺の実行部隊を編成させた。
ギャランテは、1979年6月19日にブルックリンのイタリアンレストランで食事を終えたところをスキーマスクで覆面した3人組の男にショットガンで殺害された。
なお、葉巻をくわえたまま絶命した写真はニューヨークの各誌の一面を飾った。
暗殺の実行時、ボディーガードの
レオナルド・"ニノ"・コッポラ
従兄弟でレストランの経営者
ジョゼフ・トゥラノ
も撃ち殺された。
なお、直前に一緒にいた2人のシチリア出身のボディーガード
チェーザレ・ボンヴェントレ
バルダザーレ・アマート
は席を外していたため阻止できなかったが、もともと彼らが暗殺を手引きしたと見られている。
暗殺の直接の実行者は一家のメンバー
アンソニー・インデリカート(Anthony Indelicato)
ドミニク・"ソニー・ブラック"・ナポリターノ
アンソニーの父
アルフォンス・インデリカート
らであった。
その後、ギャランテ殺害の功績からカポやキャプテンに昇進したが、その後の内紛などによりアンソニー・インデリカート、アマート以外は殺害されている。
インデリカートはこの事件が裁判で起訴され1986年に懲役12年の判決を受けた。
ギャランテの死によりボナンノ一家のボスの座には再び獄中のラステリが就任した。
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