Anthony "Fat Tony" Salerno
(1911年5月1日 - 1992年7月27日)
1970年代から1986年に裁判で有罪判決が下されるまで
ジェノヴェーゼ・ファミリー
のボスだった人物。
葉巻とソフト帽を好んで使用し、肥満であったことからニックネームは
「ファット・トニー」
と呼ばれた。
NY市のイーストハーレムで生まれ育ち、成人してまもなく犯罪組織ジェノヴェーゼ・ファミリーの一員となり
ナンバーズ賭博
高利貸し
ショバ代の取立て
等、様々な犯罪稼業に手を染め、組織内でのランクが上がっていった。
ハーレムでのナンバーズ賭博及び高利貸しにより、年間5,000万ドルの収益を稼いでいたともいう。
組織内での地位が上がっていく時期、ハーレムでは世界各地からの移民の増加でラテン系やアフリカ系ギャングの勢力が台頭したため、古くから縄張りを取り決め利権して資金を吸い上げていたイタリア系ギャングらは抗争が激しくなったこの地域から退去していった。
ただ、サレルノはイーストハーレムに設けた根城
パルマ・ボーイズ・ソシアル・クラブ
から本部を他所へ移そうとはしなかったという。
そのため、1970年代から80年代にかけて、イタリア系ギャングが去った地域に積極的な抗争を仕掛けて進出するようにもなりサレルノはいくつかの拠点を持つまで勢力を拡大していった。
稼ぎ出した資金はフロリダ州マイアミビーチの邸宅、ニューヨーク州ラインベックに100エーカーの土地と馬の飼育場、マンハッタン区グラマシーパークのアパートなどとして蓄積した。
そしてその間にファミリーの相談役、副ボス、そしてボスの代理及び表向きの公式なボス(Front boss)を務めるように組織内部で昇進していた。
その後、サレルノは違法賭博及び脱税の罪により、1978年に懲役6ヶ月の判決を受けた。
1981年の始め頃、一時的な心臓発作を起こし、体調回復の為、ラインベックの邸宅で療養生活を送った。
発作を起こした時、彼はファミリーの副ボスの地位にいた。
その後、体調が回復し、ボスだった
フランク・ティエリ
が1981年3月31日に死亡すると、サレルノはジェノヴェーゼ・ファミリーのボスの座についた。
サレルノはの右腕であり後に当局への情報提供者となった
ヴィンセント・カファーロ
によれば、公式のボスの座に着いたサレルノにはボスとしての権限は無く、サレルノはファミリーの単なる「表看板」だったに過ぎないと語っている。
ファミリーの事実上の支配権は1969年にヴィト・ジェノヴェーゼが死亡後
フィリップ・ロンバルド
が握っていた。
数年に渡りロンバルドは司法当局及び他のファミリーからの監視の目を欺く為、代理ボスやフロント・ボスを立ててファミリー内部での自分の地位を悟られないようにしていた。
そして、その間にロンバルドの後継者に
ヴィンセント・ジガンテ
を指名し、ジカンテにファミリーのリーダーとしての教育を施していたという。
カファーロによれば、サレルノがファミリーのフロント・ボスになったのは、ジガンテを監視の目から守る為だった措置だという。
1985年、サレルノに最終的な法の手が伸び2月25日、サレルノ及び8人のニューヨーク・マフィアのボス達がいわゆるコミッション裁判で起訴された。
この裁判は1986年9月から始まり、3ヶ月続き11月19日に結審した。
裁判の結果、サレルノらはRICO法の適用により有罪とされ、他の6人の被告らと共に懲役100年の刑を下された。
1986年10月、フォーチュン誌は75歳になったサレルノをアメリカで
最も有力で裕福なギャング
にランキングした。
刑務所内でのサレルノは糖尿病が悪化し、さらに前立腺癌の疑いも持たれるようになった。
1992年7月、ミズーリ州スプリングフィールドにある連邦刑務所内の医療センターにて81歳で死去した。
