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2013年11月10日

アンソニー・サレルノ(Anthony Salerno)ジェノヴェーゼ・ファミリーの副ボス

アンソニー・「ファット・トニー」・サレルノ(Anthony "Fat Tony" Salerno)
   1911年8月15日 - 1992年7月27日
 1981年から1986年に有罪判決を受けるまで、ニューヨーク市で
の副ボス兼表ボスを務めた米国のギャングスターであった。
 サレルノはニューヨーク州イーストハーレムで生まれ育った。
 青年時代は、後にジェノヴェーゼ一家として知られるようになる
   ルチアーノ一家
で、賭博、ナンバーズ、高利貸し、そしてみかじめ料に手を染めた。
 サレルノは、
   マイケル・「トリガー・マイク」・コッポラ
が率いる
   116th Street Crew
のメンバーであった。
 サレルノは、ハーレムで年間数百万ドル規模のナンバーズと大規模な高利貸しを操り、ストリートギャング団での地位を上り詰めた。
 1948年、コッポラは殺人容疑から逃れるためにフロリダへ逃亡したため、サレルノがストリートギャング団を引き継いだ。
 1959年、サレルノはニューヨークのヤンキースタジアムで行われたスウェーデン人ボクサー
   インゲマール・ヨハンソン
とアメリカ人ボクサー
   フロイド・パターソン
によるプロボクシングのヘビー級タイトルマッチに秘密裏に資金援助を行っていた。
 サレルノに対する告訴は行われなかった。
 サレルノは、フロリダ州マイアミビーチの自宅、ニューヨーク州北部ラインベックにある100エーカー(0.40 km2)の邸宅と馬牧場、イーストハーレムのパルマ・ボーイズ・クラブ、そしてマンハッタンの高級住宅街グラマシー・パークにあるアパートを行き来していた。
 サレルノはジェノヴェーゼ家の顧問、副ボス、そしてボス代理を務めていた。
 1960年代までに、サレルノはニューヨークで最大の
   ナンバーズ・ラケット組織
を掌握し、年間5000万ドルもの収益を上げていた。
 サレルノはイースト・ハーレムの
   パルマ・ボーイズ・ソーシャル・クラブ
を根城とし、この地で活動を続けた。
 連邦捜査機関(FBI)は、年間100万ドルの収益を上げる
   ブックメーカー
と高利貸しネットワークを率いているとしてサレルノを告発した。
 サレルノは
を弁護士に雇った。
 1978年4月20日、サレルノは違法賭博と脱税の罪で連邦刑務所に6ヶ月収監される判決を受けた。
 1981年初頭、釈放後、サレルノは軽度の脳卒中を患い、ラインベックの邸宅で療養した。
 脳卒中当時、サレルノはジェノヴェーゼの副ボスだった。
 サレルノが脳卒中から回復し、ジェノヴェーゼのフロントボスである
が1981年3月31日に死去した後、サレルノが後を継いだ。
 当時の法執行機関はサレルノをジェノヴェーゼ・ファミリーのボスだと考えていた。
 ただ、ニューヨーク・マフィア界では、サレルノは真のボスである
のフロントマンに過ぎないことは公然の秘密であった。
 例えば、後にルッケーゼ・ファミリーのボス代理を務め、その後情報提供者に転身した
   アルフォンス・「リトル・アル」・ダルコ
は、1982年にルッケーゼの傘下に入った際、ジガンテジェノヴェーゼ・ファミリーのボスだと聞かされたと捜査官に証言している。
 1969年にボスのヴィト・ジェノヴェーゼが死去して以来、ファミリーの真のボスは
   フィリップ・「ベニー・スクイント」・ロンバルド
であった。
 ロンバルドは長年にわたり、法執行機関から自身の本当の身分を隠すために複数のフロントボスを利用しており、1981年にロンバルドが引退し、ジガンテが一族を引き継いだ後もこの慣行は続いた。
 1985年2月25日、サレルノとニューヨークの「マフィア委員会」のボス8人が、マフィア委員会裁判で起訴された。
 1986年10月、『フォーチュン』誌は当時75歳だったサレルノを、権力、富、影響力において米国最高のギャングスターに選出した。
 そのため、彼は名目上、この裁判の筆頭被告となった。
 ただ、多くの評論家は、サレルノの最高位の地位に異議を唱えた。
 法執行機関がサレルノに対する訴訟に注目を集めるために、彼の重要性を過度に誇張していると主張した。
 サレルノの保釈請求は却下され、弁護団は連邦最高裁判所まで控訴した。
 しかし、合衆国対サレルノ事件において、最高裁判所は、彼が
   地域社会に潜在的に危険を及ぼす可能性
があるため、保釈なしで拘留できるとの判決を下した。
 サレルノは、この裁判の他の被告と同様に、1985年7月1日に無罪を主張した。
 1986年11月19日、サレルノは
   RICO法違反の罪
で有罪判決を受けた。
 1987年1月13日、彼は他の6人の被告人とともに仮釈放なしの懲役100年と24万ドルの罰金を宣告された。
 マフィア委員会の裁判を待つ間、サレルノは1986年3月21日、別の裁判で連邦の組織犯罪に関する2度目の起訴状で起訴された。
 この起訴状では、サレルノが
   マウント・サイナイ医科大学
   メモリアル・スローン・ケタリング癌センター
や不動産王ドナルド・トランプエクイタブル生命保険が共同所有するトランプタワーの建設において
   S&Aコンクリート社
   トランジット・ミックス・コンクリート社
の経営権を隠し持っていたと告発された。
 サレルノはまた、ロイ・リー・ウィリアムズが
   チームスターズ組合
の全国会長に選出されるのを違法に支援したとして告発された。
 サレルノは全ての容疑について無罪を主張した。
 1988年10月、彼は有罪判決を受け、70年の懲役と37万6000ドルの罰金、そして組織犯罪による収益の半分(推定3000万ドル)の没収を命じられた。
 1986年、サレルノが委員会裁判で有罪判決を受けた直後、サレルノの長年の右腕である
   ヴィンセント・「ザ・フィッシュ」・カファロ
が情報提供者となり、FBIにサレルノはジェノヴェーゼ一家の真のボスではなく、
   ジガンテの隠れ蓑に過ぎない
と告げた。
 カファロはまた、ジェノヴェーゼ一家が1969年からこの策略を続けていたことも暴露した。
 FBIの盗聴器は、サレルノとカポの
   マシュー・「マティ・ザ・ホース」・イアンニエロ
が、別のファミリーで作成する候補者のリストを確認している会話を捉えていた。
 この時、候補者たちのニックネームが含まれていないことに苛立ったサレルノは、肩をすくめて
   「ボスに任せよう」
と口走った。
 これは、彼がファミリーの真のリーダーではないことを明確に示していた。
 ただ、ニューヨーク・タイムズの組織犯罪担当記者
   セルウィン・ラーブ
によると、検察がサレルノをジェノヴェーゼのボスとして起訴するという誤りを犯したとしても、この誤りが委員会裁判でのサレルノの有罪判決や100年の刑期に影響することはなかったと述べている。
 ラーブは著書『五つの家族』の中で、サレルノはボスであることではなく、
   特定の犯罪行為
で裁判にかけられ、有罪判決を受けたと記述した。
 有罪判決と投獄後、サレルノの健康状態は糖尿病と前立腺がんの疑いにより悪化した。
 1992年7月27日、アンソニー・サレルノはミズーリ州スプリングフィールドにある連邦刑務所医療センターで亡くなった。
 サレルノはニューヨーク市ブロンクス区スロッグス・ネックにあるセント・レイモンド墓地に埋葬された。
    
   

のボスだった人物。



 葉巻とソフト帽を好んで使用し、肥満であったことからニックネームは

   「ファット・トニー」

と呼ばれた。




 NY市のイーストハーレムで生まれ育ち、成人してまもなく犯罪組織ジェノヴェーゼ・ファミリーの一員となり

   ナンバーズ賭博

   高利貸し

   ショバ代の取立て

等、様々な犯罪稼業に手を染め、組織内でのランクが上がっていった。



 ハーレムでのナンバーズ賭博及び高利貸しにより、年間5,000万ドルの収益を稼いでいたともいう。




 組織内での地位が上がっていく時期、ハーレムでは世界各地からの移民の増加でラテン系やアフリカ系ギャングの勢力が台頭したため、古くから縄張りを取り決め利権して資金を吸い上げていたイタリア系ギャングらは抗争が激しくなったこの地域から退去していった。



 ただ、サレルノはイーストハーレムに設けた根城

   パルマ・ボーイズ・ソシアル・クラブ

から本部を他所へ移そうとはしなかったという。




 そのため、1970年代から80年代にかけて、イタリア系ギャングが去った地域に積極的な抗争を仕掛けて進出するようにもなりサレルノはいくつかの拠点を持つまで勢力を拡大していった。

  



 稼ぎ出した資金はフロリダ州マイアミビーチの邸宅、ニューヨーク州ラインベックに100エーカーの土地と馬の飼育場、マンハッタン区グラマシーパークのアパートなどとして蓄積した。



 そしてその間にファミリーの相談役、副ボス、そしてボスの代理及び表向きの公式なボス(Front boss)を務めるように組織内部で昇進していた。


 その後、サレルノは違法賭博及び脱税の罪により、1978年に懲役6ヶ月の判決を受けた。





 1981年の始め頃、一時的な心臓発作を起こし、体調回復の為、ラインベックの邸宅で療養生活を送った。



 発作を起こした時、彼はファミリーの副ボスの地位にいた。

 その後、体調が回復し、ボスだった


が1981年3月31日に死亡すると、サレルノはジェノヴェーゼ・ファミリーのボスの座についた。




 サレルノはの右腕であり後に当局への情報提供者となった

   ヴィンセント・カファーロ

によれば、公式のボスの座に着いたサレルノにはボスとしての権限は無く、サレルノはファミリーの単なる「表看板」だったに過ぎないと語っている。  



 ファミリーの事実上の支配権は1969年にヴィト・ジェノヴェーゼが死亡後

   フィリップ・ロンバルド

が握っていた。

 数年に渡りロンバルドは司法当局及び他のファミリーからの監視の目を欺く為、代理ボスやフロント・ボスを立ててファミリー内部での自分の地位を悟られないようにしていた。



 そして、その間にロンバルドの後継者に

   ヴィンセント・ジガンテ

を指名し、ジカンテにファミリーのリーダーとしての教育を施していたという。


 カファーロによれば、サレルノがファミリーのフロント・ボスになったのは、ジガンテを監視の目から守る為だった措置だという。




 1985年、サレルノに最終的な法の手が伸び2月25日、サレルノ及び8人のニューヨーク・マフィアのボス達がいわゆるコミッション裁判で起訴された。

 この裁判は1986年9月から始まり、3ヶ月続き11月19日に結審した。



 裁判の結果、サレルノらはRICO法の適用により有罪とされ、他の6人の被告らと共に懲役100年の刑を下された。




 1986年10月、フォーチュン誌は75歳になったサレルノをアメリカで

   最も有力で裕福なギャング

にランキングした。


 刑務所内でのサレルノは糖尿病が悪化し、さらに前立腺癌の疑いも持たれるようになった。





 1992年7月、ミズーリ州スプリングフィールドにある連邦刑務所内の医療センターにて81歳で死去した。




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posted by まねきねこ at 16:20| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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