ジョゼフ・"ジョーイ"・ギャロ
(Joseph "Joey" Gallo)
1929年4月7日 - 1972年4月7日
ニューヨークの5大ファミリーの一つ
プロファチ一家
の組員で殺し屋 三兄弟の次男として育った。
別 名 クレージー・ジョー(Crazy Joe)
1976年にボブ・ディラン(Bob Dylan) が発表した
アルバム『欲望』(Desire)
に収録された「Joey」(ライナー表記は「ジョーイー」)のモデルとして知られる。
NY市の南ブルックリンを縄張りとして、ハーレムなどの黒人の縄張りまで進出して勢力下に置いていた。
ナンバーズ賭博や麻薬、売春で稼ぎまくったが、ボスのプロファチに上納金を渡さず、自らの傘下に多数の兵隊を抱えて
バズーカや爆弾
を保有するなど重武装して半独立ファミリーを形成していた。
1957年に発生した有名な
の暗殺事件の実行部隊はギャロ一派の兵隊だったとされる。
ニューヨーク市長の
ジョン・リンゼイ
に鎮静化を頼まれ、ニューヨーク大暴動では白人と黒人の右翼団体の仲裁にも乗り出している。
この際にギャロ兄弟は、僕達は「正義と平和」を守るために表面には出ないで力を尽くしたとメディアで公言している。
司法長官だったロバート・ケネディの
「内部の敵」
では、1957年に組織犯罪の調査で上の兄貴と参考人として呼ばれたギャロを
「最も異常な証人」
だったと断じている。
ケネディには「殺し屋の王様」と呼ばれたこの証人は
黒シャツ
黒ズボン
黒のコート
の出で立ちで、委員会に出頭し、首の後ろにたれた長い巻毛の外貌であったという。
委員会における委員の質問にはコップ二杯の水を振りまいたり、灰皿を机からたたき落としたりの演技を見せた。
証言では全ての質問に対し憲法「修正第5条」を持ち出して証言を拒否したと記録されている。
NYの犯罪組織を仕切ったボス
らの協定によりジョゼフ・プロファチの傘下に組み込まれた経緯がある。
そのため、南ブルックリンを縄張りとしたギャロ一族は独立系の犯罪組織として勢力を保有し、組織上昇部への忠誠心は乏しかった。
1959年頃には所属する
プロファチ一家
と内部抗争を起こした。
なお、当時マフィア・コミッション内でプロファチと対立する立場にあったボスの
の後盾を得てギャロ一家は行動に移し、一時は圧倒的な攻撃力で押して敵の首脳部をニューヨークから追放した。
ただ、共に行動していた
カーマイン・パーシコら
のグループがプロファチ側に寝返ったため、勢力がその後弱まり、同じプロファチ一門の
の仲裁を受け入れて和解している。
また、シチリア戦争で官憲から逃れ米国に亡命した殺し屋たちを多数抱えていたボナンノ一家もギャロに側面から圧力を加えたとされる。
第二次世界大戦時、欧州での戦争が終わると警察により殺人罪で逮捕されたが証拠が乏しく有罪とはならなかった。
ただ、カポネと同様の脱税と暴行容疑で起訴されアッティカ刑務所へ送られた。
この服役中の暇つぶしに読書を始めたといわれ、死ぬまで読書家に変貌したという。
刑務所では「無敵の男」とも「アンタッチャブル」とも呼ばれた70年代の黒人ギャングで麻薬シンジケートの大物である
リロイ・“ニッキー”・バーンズ
と深い交際を結ぶようになった。
アッティカ刑務所を世界暗黒史に残る暴動(1971年9月9日)が起こる少し前、1971年2月に出所した。
彼の不在中にギャロ一家は衰退していた。
娑婆にギャロが戻ると、再び活動を活発化させ黒人ギャングや暴走族の
ヘルズ・エンジェルス
とも提携し、プロファチの縄張りを継いだコロンボと熾烈な抗争を始めた。
なお、コロンボが米国における
イタリア人権利向上運動
にのめりこんだため、FBIなど司法当局の注目を浴びるようになった。
このことを快く思っていなかったガンビーノの支援を受けていたといわれている。
コロンボはまもなく
コロンブスサークル
での集会最中に黒人ガンマンによって狙撃され、植物人間となって引退するした。
この暗殺未遂事件は一般にはギャロの手引きとされる。
ギャロはこの抗争により1972年4月7日、リトル・イタリーの有名なカニのレストラン
"Umberto's Clam House"
で誕生日を祝っていた。
コロンボ派のヒットマンに背後から狙撃され、逃げようとして路上へ出たところで絶命した。
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