ジョゼフ・"ジョー・メイラク"・マリオッコ
(Joseph "Joe Maylak" Magliocco)
1898年 - 1963年12月28日
プロファチ一家に属していたマフィアのメンバーで、一家のボス。
本名 ジュゼッペ・マリオッコ(Giuseppe Magliocco)
シチリア・カステッランマーレ・デル・ゴルフォ出身で、体重が300ポンド以上もある巨漢だった。
義理の兄弟に当たる
(Joseph "Joe" Profaci, 1897年10月2日 - 1962年6月7日)
の時代にはプロファチ一家(現在のコロンボ一家)のアンダーボスを務め、1962年の彼の死後、ファミリー内のキャプテンたちの選挙によってボスに昇格した。
しかし、トーマス・ルッケーゼから選挙は正当なものではないと主張され、ボスを決め直すべきだと言いがかりをつけられた。
当時のルッケーゼはギャロ兄弟を支援していた。
その後、マリオッコはコミッション会議で
4万ドルの罰金
と再びボスを決める選挙をやり直すよう命じられた。
このとき行われたコミッション会議はアパラチン事件の後であり多くのボスがFBIに逮捕され取調べ中であった。
そのため多くのボスが欠席した(マリオッコ自身も逮捕されている)ため、この会議は何の意味も持たないと
は話している。
その後、マリオッコは警備に神経質になり、屋敷のフェンスには電流を流し、車を使うときは爆殺を警戒し、前夜に爆弾が仕掛けられていないか確かめるためにリモコンを使いエンジンをかけるほどの徹底ぶりだった。
その当、時屋敷にはビル・ボナンノが住んでいた。
マリオッコとボナンノ親子は親しい関係だった。
1963年、敵対するギャロとその仲間たちが逮捕されたことにより、マリオッコの緊張状態はようやく終結した。
1963年初秋、甥の義理の父親
サルヴァトーレ・"ザ・シェイク"・ムサチオ
マリオッコの下についていた
が裏切ってガンビーノらに密告した。
このため、高血圧に苦しんでいたマリオッコは命こそ助けられたものの5万ドルの罰金を払わされた上、ボスの座から引きずり降ろされた。
マリオッコはその直後に体調を崩し、1963年12月28日に病院で心臓発作により亡くなった。
その後、一家のボスの座は密告したコロンボの手に転がり込んだ。