ジョン・ゴッティ(John Joseph Gotti Jr.)
1940年10月27日 – 2002年6月10日
ジョン・ゴティとも呼ばれた。
NYのイタリア系犯罪組織で5大ファミリーの一つ
のボス
NYブロンクスでイタリア系の両親の間で13人兄弟の5番目に生まれた。
父はナポリからの移民であり、子沢山であったことからゴッティは貧しい環境で育った。
子供時代の憧れは
だったという。
ゴッティの犯罪歴は、16歳で高校を中退した。その後、犯罪者として窃盗団の一員になり
アイドルワイルド国際空港
(ジョン・F・ケネディ 空港に変更)
でトラックの荷物を盗んだことに始まる。
ガンビーノ一家の
カーマイン・ファティコ
(Carmine Fatico)
の部下だった。
ただ、出身地と血縁で結ばれたマフィア組織ではシチリア人でなかったため、マフィアの正式な構成員にはなれなかった。
幼なじみでその後にカポとなった
とガンビーノ一家の準構成員
ウィルフレッド・ジョンソン
(Wilfred Johnson)
と親交を結び、強奪、自動車窃盗などの犯罪に手を染め頭角を現し、1966年に正式にガンビーノ一家の構成員になった。
1960年、20歳の時にユダヤ系ロシア人の
ヴィクトリア・ディジョージョ
と結婚し5人の子供に恵まれる。
なお、娘のヴィクトリア・ゴッティは作家でベストセラーを3作も出している。
日本でも「おまえを見ている」が翻訳されている。
ゴッティは表家業として配管工事のセールスマンとして働いた。
裏ではリトル・イタリーにあるガンビーノ一家が本部としていた
レイヴナイトクラブ
を取り仕切っていたという。
一家のアンダーボスだった
から気に入られ、彼の下で出世を遂げていった。
また、裏でギャンブル事業も手がけていた。資金をより多く稼ぎ地位を上げたいとの思惑から、やがて麻薬ビジネスにも手を出すようになった。
1969年にはニュージャージー・ターンパイクでトラックの貨物を強奪したことで4年の懲役となり、ペンシルベニア州ルイスバークの連邦刑務所に入った。
刑務所内を仕切っていた犯罪者集団とも交流を持ち、マフィアの友人を作り計画の交換もしたという。
刑務所ではボナンノ一家のボス
とも出会い面識を持った。
1972年5月22日にカルロ・ガンビーノの甥が身代金目的で
エマニュエル・ガンビーノ(マニー)
誘拐殺人事件の復讐として、犯人のアイリッシュギャング
ジェイムズ・マクブラトニー
をルッジェーロと共に射殺した。
この事件で裁判で有罪になるが、ガンビーノが用意した「赤狩り」への貢献で知られる弁護士の
ロイ・コーン
によって、3年で釈放された。
街に戻るとマフィア内では英雄扱いを受けている。
当時のガンビーノ一家では、ボスの
が麻薬の密売を“建前上”禁止していたが、ゴッティはそれを無視し麻薬ビジネスを続けていた。
1977年になって自分のカポレジームだった
ファティコ
が引退し、アンダーボスのデラクローチェがゴッティを昇格させた。
このときカステラーノは最初、ゴッティを殺人や強盗などの荒い仕事しか出来ない、小物のギャングでシチリア人でもないため昇格に反対していた。
カステラーノはゴッティの能力を低く査定して見ていたため恨みを持つようになっていった。
しかし、ゴッティはカポ時代はカステラーノのことを非常に恐れていた。
カステラーノから電話で呼び出されると
「畜生、俺はまた何かをやらかしてしまったのか」
と怯えたこともあった、という証言もある。
ゴッティの息子の一人フランクは1980年3月18日、12歳の時に交通事故で死亡した。
交通事故で息子が死んだとき、カポとなっていたジョン・ゴッティの機嫌が悪くなり部下たちは大変だったという。
なお、兄のピーター・ゴッティと息子のジョン・A・ゴッティは共にガンビーノ一家のボスを務めた。
フランクと事故を起こした隣人
ジョン・ファヴァラ
は事故後、友人たちから今住んでいるハワードビーチから引っ越して2度と戻ってくるなと忠告された。
ファヴァラはフランクとの事故は防ぎようのない事故で、ゴッティが少しでも道理のわかる人間なら復讐なんてしないし、マフィアなんて映画の世界だろうと思い友人の言ったことを聞き流していた。
ただ、その直後の6月28日に行方不明になり、2度と姿を見せることはなかった。
ウィルフレッド・ジョンソンら6人の部下がファヴァラの誘拐を実行し始末したといわれている。
また、ゴッティ自らがチェーンソーでバラバラにしたという噂もある。
なお、形式上ファヴァラが行方不明になった頃、ゴッティはフロリダにいたということになっている。
カステラーノら5大ファミリーのボスや幹部が一斉起訴された。
これに伴い、ゴッティが行なっていた麻薬取引がカステラーノに知られるようになった。
ガンビーノ一家における禁止事項を破ったことが公になりゴッティのグループの解体と、さらにはゴッティの命の危険を意味した。
生き残るためにボスのカステラーノの暗殺計画を立て
サルヴァトーレ・グラヴァーノ
ら若手構成員らに指示し、1985年12月16日に実行させた。
コミッションの許可も取らずに一方的に自分のボスを暗殺したことに対し、秩序を重んじなかったことがコミッションに糾弾されないように、ニューヨークの他の四つのファミリーの幹部と連絡を取り、意見を聞いて従順さを装っていた。
なお、カステラーノを暗殺するヒットマンには4人全員に同じ服装をさせ、目撃者から特定されないようカモフラージュをさせて捜査機関の追求の矛先をかわした。
翌1986年にガンビーノ一家の幹部たちで会議を開き、21人全員の推薦をえてボスになった。
当時45歳で一部の手下からはボスになってから長くは持たないとのうわさが絶えず
ローマ教皇
になってすぐに死亡したヨハネ・パウロ1世にたとえられて、"ジョン・ポール(ヨハネ・パウロ)・ゴッティ"と裏で囁かれたという。
ゴッティがボスになった後、カステラーノ時代にコンシリエーレ(相談役)だった
ジョー・N・ギャロ
を下ろして
フランク・ロカシーオ
(Frank Locascio)
を昇格させ、グラヴァーノを幹部にするなど、組織の若返りを計った。
NYのジェノヴェーゼ一家のボスの
はボスを暗殺したこの簒奪劇を認めず、ルッケーゼ一家のボス
ヴィクター・アムーソ(Victor Amuso)
と組んで同年4月13日にアンダーボスに昇格したばかりの
フランク・デチッコ
を殺害した。
ゴッティがボスになってからは部下から多くの上納金を受け取るようになり年間所得は2000万ドルはあるといわれた。
また、自ら進んでメディアに出たり派手に振舞うことから「現代のアル・カポネ」とも呼ばれた。
大の賭博好きで、週に30万ドル以上負けたこともあったという。
合法的な所得としては配管工事用品の販売係とジッパー会社の役員の仕事からなる7万5000ドルだったとされている。
また、ギャンブルなどでの派手な散財も目立った。
ゴッティはブリオーニ(Brioni)などのイタリア製の高級スーツに身を包み、派手な生活スタイルと著名人との交友、マスコミへの頻繁な露出で有名になり
ダッパー・ドン(Dapper Don、「粋な首領」)
とあだ名され映画スターのように目立つことがとても好きだったという。
1989年、FBIの公聴会で長年の友人
ウィルフレッド・ジョンソン
が1969年以来FBIの内通者だったことが判明したため、ゴッティは同年8月29日にウィルフレッドを暗殺している。
ゴッティはフィラデルフィアの"リトル・ニッキー"・スカルフォと深いつながりを持ち、アトランティックシティの縄張りを分け合っていた。
1989年11月までにスカルフォの甥
フィリップ・レオネッティ
がFBIに捕まると、司法取引による減刑と引き換えにしてゴッティのカステラーノ殺害における役割を法廷で証言した。
ただ、1990年2月の裁判では殺しの命令をしている盗聴テープが法廷で流されたが無罪になった。
数回にも渡り告発、起訴されたにもかかわらずなかなか有罪判決を受けなかった。
また、判決を受けた後などにマフィアのボスとして颯爽とテレビに顔を出し、FBIをあざ笑っていた姿が流された。
当時ガンビーノ一家は組織犯罪の情報課の刑事
ウィリアム・ペイスト
というをスパイとして使い、警察やFBIの情報を手に入れていた。
後にペイストは組織犯罪への関与が発覚して有罪を受けている。
ルッケーゼ一家によるゴッティを狙った暗殺行為は継続され、1990年11月6日にはカステラーノ暗殺の実行犯の一人で側近の
エドワード・リノ
がルッケーゼ一家と通じた警察官ルイス・エッポリトとスティーヴン・カラカッパにより射殺されている。
ゴッティはジェノヴェーゼ一家のボス
ヴィンセント・ジガンテ
やルッケーゼ一家のボス
ヴィットーリオ・アムーソ
らと粘り強く会合を続けた。
FBIでガンビーノファミリー捜査班を率いた
ブルース・モウ
に徐々に追い込まれ、1990年12月11日火曜日にゴッティは組織の本部のレイヴナイトクラブでロカシーオとグラヴァーノと一緒に逮捕されている。
ただ、テレビ出演による大衆人気があったゴッティの逮捕を受け、一部民衆による暴動が起きている。
米国は湾岸戦争真最中で、裁判を待つ間、留置場でゴッティはアメリカ政府ともめていたためイラクを応援していたという。
留置場にいる間に猜疑心が強くなり、グラヴァーノとロカシーオには自分のいない所で弁護士に会うなと言うなど、2人のことをまったく信用しなくなった。
なお、2人はゴッティの頭がおかしくなったと思ったという。
アンダーボスのグラヴァーノはFBIの証人保護プログラムに入りFBIに協力してしまった。
1991年2月12日に裁判が始まり、グラヴァーノが法廷で組織のことを証言し、4月2日に有罪を受けた。
13件の殺人への関与や不法賭博などの罪状で、起訴状にある14の訴因ですべて有罪を受け仮釈放のない終身刑を受けた。
同時にガンビーノ一家の7人のカポが実刑を受けた。
その中にはトミー・ガンビーノもいた。
服役中は息子のジョン・ジュニアが月に2回面会に訪れていた。
当時全米最大のマフィア・ファミリーを率いている
ゴッティの失脚
がイタリア系犯罪組織没落の大きなきっかけになったと言われている。
また、服役中に他の囚人からリンチを受けた噂もある。
ゴッティは2002年にミズーリ州スプリングフィールドの刑務所内の病院で喉頭癌のために死去した。
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