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2013年11月22日

ポール・カステラーノ(Paul Castellano) ガンビーノ一家のボス

ポール・カステラーノ(Paul Castellano) 
   1915年6月20日 - 1985年12月16日
 ガンビーノ一家のボスだった人物
 本 名 コンスタンティノ・ポール・カステラーノ
            (Constantino Paul Castellano)
 ブルックリンのベンソンハーストにある肉屋の息子として生まれた。
 若い頃は宝くじを売って凌いでいた小物のチンピラだったという。
 なお、父親は初期の
のメンバーの一人であった。

 ポールはファーストネームを嫌って
   "C. Paul Castellano"
と常にサインしていたという。
 ニューヨーク市のスタテンアイランドの「ホワイト・ハウス」とあだ名された豪邸に居を構え、全米のマフィアを仕切るコミッション(全国委員会)の議長でもあった。

 巨体だったことから
   "ビッグ・ポール"
   "ビッグ・ポーリー" など
多くのあだ名があった。なお、外見は典型的な'暗黒街のドン'である。
 カルロ・ガンビーノはカステラーノの姉と、カステラーノはガンビーノの義理の妹と結婚し姻戚関係にある。

 独自の雰囲気とオーラを持ち堂々とした話し方でカステラーノは説得力があり人を動かすのがうまかった。  
 ジェノヴェーゼ一家の
   "ファット・トニー"・サレルノ
はカステラーノのことを
   なんてすばらしい話し方
なんだと感心し、それを真似ようとしたとも言われている。
 しかし、部下に対しては無神経で他人を平気で見下すところもあった。
 そのことでガンビーノ一家のカポ(capo)
   ロイ・デメイオ
や他の部下は本人がいないところで怒った事があったという。
  
 カステラーノは日常でもフランク・コステロのように上流階級の一般市民と交流するのが好きでマフィアと見られることに対してあまり居心地がよくなかったという。
 ガンビーノとは親戚であり、その為ガンビーノの死に際しては、副ボスの
を差し置いてその遺言によりボスとなった。
 なお、カステラーノはいずれガンビーノの息子の
   トミー・ガンビーノ
にボスの座を譲ると言う密約があったとも言われる。
 カステラーノはデラクローチェをなだめるために引き続き副ボスの座にとどめると同時に彼の一派に大きな利権を分け与え、実質的に一家は二分されることとなった。

 ポール・カステラーノはガンビーノ一家のボスになった後すぐにスタテンアイランドのトット・ヒル(Todt Hill)に当時150万ドルの豪邸を建てた。
 カステラーノはコロンビア人メイドのグロリア・オラルテを愛人としていた。
 ガンビーノ一家と
のフィラデルフィア一家は親密な関係で、カステラーノもボスになってからもその関係を継承した。
 FBIはニューヨークやフィラデルフィアでアンジェロ・ブルーノとカステラーノが会食する姿を確認している。
 カステラーノは肉屋の経験を生かし食肉卸業を始め大もうけした。
 その仕事はそのうち2人の息子ポール・ジュニアとジョセフに任せた。
 三男のフィリップにはセメント会社をやらせていた。
  
 カステラーノは一家全体で
   麻薬取引を禁止
しており、コミッション会議でもそのことを他のファミリーのボスに言ったことがある。
 しかし、ある部下の話によると表では麻薬取引を一家では禁止していたものの上納金として部下が麻薬ビジネスで稼いだ儲けを受け取っていたともいう。
 また、上納金など受け取るときには部下が何をやって作った金か一切聞かなかったという。
 カステラーノが一家における麻薬の取り扱いを禁止した1番の理由は部下自身が麻薬に溺れ、捜査機関等へ軽々に組織野情報を漏らすことを恐れていたためという。
 また、カステラーノは直接自分の手が汚れるのを嫌って、汚い仕事は他人にやらせ、汚い仕事をやっていた者からもちろん上納金は受け取っていた。
 さらにファミリーの仕事は部下にまったく相談せずに進める独善的なことが多く、利害の対立化や競合がおこったことで仕事が少なくなった部下もいた。
 このようなことからカステラーノはファミリー内での信用が低下し、部下から不満も出ていた。
 1985年ごろには部下からファミリーの結束を手放していると思われているほどだった。
  FBIによって自宅に盗聴器が仕掛けられて情報が漏れたことで、1985年3月25日に起訴された。
 そのときに自分の部下が自分の知らないところで勝手に麻薬取引をしていたことを知る。
 1985年12月2日にデラクローチェがガンのため死亡し、配下の
がその組織を引き継いだ。

 カステラーノは ガンビーノ一家の掟を無視し麻薬ビジネスに手を染めたゴッティの組織を解体することに決めた。
 12月16日午後5時、カステラーノはニューヨークのお気に入りのステーキ店(スパークス・ステーキ・ハウス)に向かい、そこでゴッティの組織を解体すると宣言するつもりだった。
 その情報がゴッティに漏れており、カステラーノが店の前で車を降りた所をゴッティフランク・デチッコらの放った殺し屋に襲撃された。
 運転していたカステラーノの片腕でアンダーボスに昇格したばかりの
   トミー・ビロッティ
と共にカステラーノが暗殺された。

 ゴッティとサルヴァトーレ・グラヴァーノは道路越しに駐車した車の中から一部始終を見届けていたという。
 なお、カステラーノが暗殺されたとき車内にあった香水(シャネルの5番)は愛人オラルテへのプレゼントだったという。
 暗殺を実行した4人は全員白いコートに毛皮の帽子をしていたため区別が出来ず、襲撃の目撃者は犯人は同じ服装をした2人か3人で区別や特徴は解らないと答えたという。
 ニューヨークタイムズは彼の死を2日間1面トップで伝えた。
 暗殺の理由としては、組織の合法化への反発や、コロンビア人メイドとのロマンス、アニエロ・デラクローチェの死に際しての不義理であった。
 また、自宅がFBIに盗聴されており、その為ニューヨークのボス連中が次々と逮捕されたことに対する他ファミリーの反発など様々であったという。
 直接の理由は、一家内で厳禁事項であった麻薬取引に手を染めていたゴッティが、後見人のデラクローチェの死後、後ろ盾が無くなり一家内で見せしめとして粛清されるのを恐れての暗殺と考えられている。 
 ただ、ジェノヴェーゼ一家のボス
はゴッティらによるクーデターを認めなかった。
 翌年には暗殺のための会合を手引きしたデチッコをコミッションの許可を得ずに勝手に行動したとして見せしめに暗殺するなど、ガンビーノ一家との間で抗争が勃発している。
 なお、カステラーノの妻はカルロ・ガンビーノの親戚にあたる。
 そのためカルロは、通称でも「いとこのカルロ」と呼ばれていた。
 ちなみに、カステラーノを暗殺したゴッティは、シチリア系ではなくナポリ系の血を引く。
   

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posted by まねきねこ at 00:00| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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