“レプキ”ルイス・バカルター
(Louis "Lepke" Buchalter)
1897年2月12日 - 1944年3月4日
NYのユダヤ系ギャングスター
渾名は、イディッシュ語で「小さなルイス」を意味する"Lepkeleh"から来ており、これは母が少年時代に彼をそう呼んでいたことにちなむ。
イタリア系の犯罪組織のベンジャミン・シーゲル、 マイヤー・ランスキーと手を組み
マーダー・インク「殺人株式会社」
を結成し、バカルターはトップとして暗殺部隊を指揮し、ギャングの大物ボスで死刑になった最初で最後の人物。
ニューヨーク・マンハッタンの
ロウアー・イースト・サイド
(Lower East Side, Manhattan)
で、東欧出身のユダヤ移民の間で生まれ、少年時代から盗みに手を出しており、22歳までに2年近くも服役していた。
友人の
ジェイコブ・シャピロ
(Jacob Shapiro)
とともに労働運動を利用し、企業や労働組合に対する恐喝などを続けた。
バカルターは服飾産業の組合を牛耳っており配下には
などがいた。
1927年にはライバルの
“リトル・オージー”ジェイコブ・オーゲン
(Jacob "Little Augie" Orgen)
をシャピロと共に殺害して権益を奪った。
1930年代初頭、ラッキー・ルチアーノ、ジョニー・トーリオとともに「緩やかな」同盟を結成した。
1937年に特別検察官の
トーマス・デューイ
が組織犯罪に対して圧力をかけたため一時期姿を隠している。
その間、自分を有罪にする恐れのある人物を次々と消していった。
そして2年後の1939年、ルチアーノから連邦法によって麻薬取締法で裁かれればニューヨーク州から殺人で告発されることは無いという助言もありバカルター自ら連邦捜査局に出頭した。
当初は懲役14年の刑を受けてカンザス州レブンワース連邦刑務所へ送られた。
その後、ニューヨークのデューイの元へ引き渡されて懲役30年の判決を受けた。
翌1940年に側近の
が逮捕され、司法取引によりバカルターらのことを洗いざらい告白した。
そのことで未解決事件がブルックリンだけで49件も片付いた。
バカルターは1936年に殺害されたブルックリンのキャンディーショップ店主
ジョゼフ・ローゼン
の殺害容疑で起訴された。
ローゼンはバカルターが牛耳っていた服飾会社の元運転手だったが、当局に内通していると疑われたため殺害された。
この事件の訴訟で1942年10月にバカルターは死刑判決を受けている。
なお、バカルターは死刑執行を免れようと手練手管を用いて抵抗したものの、1944年3月4日、ニューヨーク州のシンシン刑務所で2人の部下
ルイス・カポネ(Louis Capone)
“メンディー”エマニュエル・ワイス(Emanuel "Mendy" Weiss)
と共に電気椅子で処刑された。
なお、電気椅子で死んだ唯一の大物ギャングといわれている。