ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(Giovanni di Bicci)
1360年 - 1429年2月20日
フィレンツェのメディチ家当主で15世紀始め一族の繁栄を築いた人物
ローマ教皇庁とのつながりを深め、銀行業で成功した。
ジョヴァンニはフィレンツェの裕福ではない家庭に生まれ生年月日もはっきりしない。
メディチ家の基礎をつくった人物
ヴィエーリ・ディ・カンビオ・デ・メディチ
(1323年 - 1395年)
のもとで働き才能を見つけられ、1386年に25歳でヴィエーリが経営していた
「ローマ商会」
の共同経営者となった。
ローマ教皇庁を主な得意先とする「ローマ商会」はヴィエーリの仕事の中で最も重要な位置にあった。
ジョバンニはヴィエーリが1393年に引退すると、その事業を引き継いで自分のやり方に変えていった。
1397年10月1日、「ローマ商会」の本店をローマからフィレンツェに移転させ、フィレンツェの経済界で、メディチ銀行の第一歩を歩み始めローマやヴェネツィアなどへ支店網を広げた。
1420年にはメディチ銀行は優れた組織の構造と優秀な人材を雇うことによって急速に発展し、支店をヨ−ロッパの主要都市に展開していった。
1426年11月には、当時の国際的な金融・商業の中心であったスイスのジュネーヴに支店を設立し世界の舞台に進出した。
銀行業の成功によってジョバンニの社会的地位もつかみ
銀行組合
の一人として共和国政府の重要な役職を務めることになりました。
ジョヴァンニは、教会大分裂(シスマ)によりローマとアヴィニョンの対立が続くカトリック界に介入した。
元は海賊ともいわれる醜聞に包まれた人物とも言われる枢機卿
バルダッサレ・コッサ
を支援し、対立教皇
ヨハネス二十三世
として即位させることに成功、1410年に
ローマ教皇庁会計院
の財務管理者となった。
教皇庁の金融業務で優位な立場を得ることで莫大な収益を手にすることに成功した。
その後、対立教皇のヨハネス二十三世は
コンスタンツ公会議(1414〜1418年)
で廃位となったもののメディチ銀行は引き続きローマ教皇庁での地位を保った。
この間、ジョヴァンニは、フィレンツェの「正義の旗手」や外交大使なども歴任し、社会的な地位を高めた。
一方、1422年にローマ教皇マルティヌス5世は
モンテ・ヴェルデ伯
の称号を授けようとした。
しかし、称号を受けることに伴い活動が制限され義務が増えることから政治的な配慮から爵位を辞退し、「一市民」の立場にとどまった。
なお、ジョヴァンニが1429年に死去した時、離散したメディチ家の一族、教皇代理、諸外国の大使、フィレンツェの有力者達が参列し、メディチ家の社会的威信、一族の統合を知らしめたと言う。
ジョバンニの長男コジモの代に、フィレンツェにおけるメディチ家の実質的な支配体制が確立したといわれている。
また、コジモの血統が断絶した後、次男のロレンツォの子孫がトスカーナ大公国を興した。
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