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2013年09月02日

諸戸 清六 桑名を拠点とした実業家

 
諸戸 清六

  (1846年 - 1906年)
 
 日本の実業家
 諸戸家は伊勢攻略本願寺門徒らが蜂起した
   長島一向一揆
で織田信長が攻撃を仕掛けた時代から伊勢国桑名郡木曾岬村(現在 三重県桑名郡木曽岬町)加路戸大新田で庄屋の家系で
   父 清九郎(養子)
   母 みか
の長男として生まれた。
 
 
 初代清六は幼名を民治郎が18歳のとき、庄屋まで務めていた旧家だった諸戸の家を清九郎が始めた
   塩問屋の商売に失敗
して身代を潰し、弘化4年(1847年)に移住した。
 
 安政7年(1860年)に父・清九郎が、文久3年(1863年)に後見人でもあった義兄
   清助
が亡くなった。
 
 民治郎は18歳で家督を継いだが大庄屋だった財力は大きく傾き、家財はわずかな布団や衣類などと約二十石積の船一隻のみであった。
  
 
 対して借金は千両以上あったと言う。
 
 先祖伝来の田地を大方借金の返済として人手に渡し財産を喰いつぶしてしまった父清九郎の名をひっくり返して
   清郎九つまり「清六」
と変え、その時に
   立志の誓い
を行ったという。
 
 その時の「立志の誓い」が現在でも諸戸家の家訓になっている。
  
 
 借主に対して
   無利子十カ年
での返済を頼みこんで了承を得た清六は、「時は金なり」を信条として
   勤倹節約
を実行し、寝る間も惜しんで米の仲買に励み僅か3年で父のつくった膨大な借金を全部返済してしまった。
  
 
 明治維新を商機として事業を拡大し、明治9年(1876年)の西南戦争における
   軍用御用(兵糧調達)
での仕事ぶりが評価された。
 
 
 1872年、佐賀県士族出身の三重県令
   岩村定高
と知り合ってから、政商的な色彩を強め、多くの政府要人や三菱財閥の創始者
   岩崎弥太郎
などの信頼を得て、大隈重信や松方正義、品川弥二郎、大倉喜八郎、渋沢栄一、森村市左衛門らと親しく付き合うようになった。
 
 
 明治11年(1878年)の西南戦争では情報を人よりも先に手に入れることで米の相場で大儲けし
   大蔵省御用の米買方
となった。
 

 明治18年(1884年)に
  山田家屋敷跡
    (現在の諸戸氏庭園)
を購入、明治20年(1888年)に居を移した。
 
 なお、清六が米相場から、土地に手を出したのは1883年頃からといわれ、「田地買入所」の幟を立てて買い始め5年ほどで田地を5千町歩買い占めた。
 
 この土地買いは、田地田畑だけではなく、その後、東京の恵比寿から渋谷、駒場に至る住宅地30万坪を買いまくり、ひと頃は渋谷から世田谷まで、他人の地所を踏まずに行けたともいわれている。
 
 
 桑名町(当時)の水道建設計画が財政上の理由で頓挫すると、明治32年(1899年)に自家用水道を敷設して邸前の水槽に引き入れ町民に開放した。
 
 更に明治37年(1904年)には町内55ヶ所に給水栓を設置、無料で開放した。
  
 
 全国でも7番目に建設されたこの水道施設は大正13年(1924年)に町に寄贈され、昭和4年(1929年)まで使用された。
 
 初代清六の二男精太は40歳の半ばにして早世した。
  
  
 精太は国際情勢を理解して無謀な戦争を行うことの愚かさを知っていた軍人の一人で
   東条英機
とは犬猿の仲でもあった陸軍大将
   宇垣一成
と非常に親しい間柄になり、さらに父清六とつながりのある政治家や財界人との付き合いを深めた。
 
 タオル事業や証券会社の設立などを行い諸戸家の事業をより発展させている。




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posted by まねきねこ at 22:01| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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