その後許しを得て、1549年8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。
1549年9月には、伊集院城で薩摩の守護大名
島津貴久
に謁見、宣教の許可を得た。
ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。
なお、日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。
しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため
「京にのぼる」ことを理由
に薩摩を去った。
1550年8月、ザビエル一行は肥前平戸に入り、宣教活動を行った。
同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京を目指し平戸を出立した。
博多に滞在の後、11月上旬に周防山口に入り、無許可で宣教活動を行った。
周防の守護大名
大内義隆
にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りをかい、同年12月17日に周防を立ち去った。
岩国から海路に切り替え、堺に上陸し、豪商の日比屋了珪の知遇を得ている。
1551年1月、日比屋了珪の支援により、一行は念願の京に到着、了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。
ザビエルは、全国での宣教の許可を『日本国王』から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および足利義輝への拝謁を請願した。
しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。
また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。
なお、これらの失敗は戦乱による足利幕府の権威失墜も背景にあると見られ、当時の御所や京の町はかなり荒廃していたとの記録もある。
↓ 参考になったらクリックお願いします。
(フランシスコ・デ・ザビエル @、A、B、C、D、E、F)

