ジャック・"マシンガン"・マクガーン(Jack "Machine gun" McGurn)シカゴ・アウトフィット
1905年 - 1936年2月13日
シチリア出身のギャングスターでアル・カポネの部下として活躍した。
本名 ヴィンチェンツォ・アントニオ・ジバルディ (Vincenzo Antonio Gibaldi)
ただ、母が再婚したため、再婚相手の姓を付けた
ジェームズ・ヴィンチェンツォ・デモラ
(James Vincenzo DeMora)
の名でも知られる。
プレイボーイで、金髪美女が無類の好物だった。
マフィアの抗争で1928年ごろ、アイルランドギャングの
の手下のグーゼンバーグ兄弟からラッシュストリートのホテルの電話ボックスに入ったところをマシンガンで蜂の巣状態で撃たれても一命を取り留めたことから
"マシンガン"マクガーン
と呼ばれるようになり、ゴルフの腕はプロ級だったという。
ジャックはトマスとジョセフィンの6人兄弟の長男としてシチリアのリカータで生まれた。
一歳のときにアメリカンドリームを夢見て生活苦から逃れるために一家でアメリカ・ブルックリンへ移住した。
当時は小柄だがスポーツ万能で目立ちたがり屋だったという。
思春期の頃、フランキー・イェールの部下のヒットマン
ウィリー・アルティエリ
と父親のトマスの容姿が似ておりアイルランド系ギャング組織
ホワイトハンド
の構成員に誤認されて射殺された。
その後、未亡人になったジョセフィンは食料品店を営む
アンジェロ・デモリー
と再婚しシカゴに移り住んだ。
アンジェロは凶暴さから、アルカポネ一家の構成員でもある『恐怖のジェンナ』と恐れられた
に密造酒を作るために必要な砂糖をおろしたりしていた。
義父アンジェロはギャングスターの構成員ではなかったが危険な男たちとの付き合いがあったためか、1923年1月に射殺されている。
なお、のちにマクガーンはしっかりと復讐を果たしたという。
マクガーンは10代の頃にボクシングを始め、アマチュアでは結果を出していた。
ジムの経営者が将来を期待し
ジャック・マクガーン
というリングネームを与えた。
プロに転向したものの、アマチュア時代とは異なりまるで鳴かず飛ばずだったために結局プロボクサーへの道を断念した。
その後、アル・カポネの犯罪組織に入った。
19歳の時に一時ブルックリンに戻り、父親を殺したホワイトハンドの2人の組員に復讐し銃弾を浴びせて射殺し、ボスの
ビル・ロヴェット
にも大怪我を与え復讐を果たした。
カポネの犯罪組織に入ってから頭角を現し3年間で
週給150ドル
の無名のボディーガードというポジションからカポネ一家の共同経営者に名を連ねるまでに出世した。
なお、美男子で度胸のあるマクガーンはカポネに気に入られ可愛がられたという。
アル・カポネが経営する酒場のグリーン・ミルに芸人で歌手の
ジョー・E・ルイス
が出演していた。
この酒場グリーン・ミルの利益の一部はマクガーンがもらっていた。
1927年8月にルイスが商売敵の
らが経営するもぐり酒場の"ニュー・ランデヴー"に引き抜かれた。
マクガーンが「何でグリーン・ミルを辞める」のか問い詰めたところ、グリーン・ミルとの契約が切れるから
"ニュー・ランデヴー"
で興行始めると返答した。
この回答に怒り心頭となったマクガーンは初日まで生きちゃいられないぜとルイスを脅したが、ルイスは契約を問題としていたのではなく、女をめぐって2人が争っていたことが大きな要因だったといわれている。
この女は最初はルイスと付き合っていたが、途中で羽振りの良いマクガーンに乗りかえたという。
ただ、マクガーンは彼女に飽きると、なんとカポネが経営する売春宿に売り飛ばし働かせているため、ルイスとしてはプライドもあり、自分の恋人を奪って売春宿に売りとばした男の命令なんかに従うつもりはなかった。
10月2日にルイスは予告どおりに"ニュー・ランデヴー"に移ったが、マクガーンは11月9日にルイスがホテルに泊まっているところを3人の男に襲わせて大怪我を負わせた。
アル・カポネの命令で1927年7月1日に
フレッド・"キラー"・バーク
の3人がニューヨークのフランキー・イェールの殺害を実行した。
1928年ごろ、ラッシュ・ストリートのホテルの電話ボックスに入ったところ、モランの手下の
グーゼンバーグ兄弟
にマシンガンで襲われた。
マクガーンは応戦することも出来ずに被弾し倒れた。
グーゼンバーク兄弟はマクガーンが撃たれて倒れたため、死んだと思いその場から逃走した。
しかし、マクガーンは救急車で病院に運ばれ一命を取り留めた。
アル・カポネにはその後、目障りな敵でもあるモラン一味全員を抹殺するべきだと進言した。
マクガーンは1929年初頭にアル・カポネを訪れて
反撃に出る許可
を求めたため、アル・カポネが作戦遂行を承認した。
暗殺メンバーは
フレッド・"キラー"・バーク
と見張り役にデトロイトのパープル・ギャングの
キューウェル兄弟
など選り抜きの人材を集めて暗殺部隊を編成した。
1929年2月14日の木曜日に
として知られる事件だが、モラン一味が倉庫にいるところを手入れを行う警察官を装い攻撃するといった入念な計画を立て、モラン一味の動向を探った。
マクガーンは暗殺現場には同行しないがアリバイを作る必要があった。
そのため、スティーヴンズ・ホテルに恋人の
ルイズ・ロルフ
と泊まり、本名で宿帳に署名した。
その後、警察がマクガーンをホテルのスイートで逮捕し、本部へ連行すると、2人の目撃者が虐殺現場で彼を見たと証言した。
マクガーンは、目撃証言がもととなり釈放なしで勾留された。
繰り返し追求を受けたマクガーンは警察では用意周到に練った計画通り
「金髪のアリバイ」
と呼ばれた米国犯罪史上最も有名なアリバイを使って虐殺には関与していないと主張した。
マクガーンとロルフは結婚したため、ロルフがマクガーンに対して不利な証言をするはずはなかった。
1929年12月2日に彼に対するあらゆる告訴が取り下げられ、彼は釈放された。
その後、マクガーンは素行が悪くマイアミ・ビーチでマシンガンを乱射していたため逮捕された。
このとき他に、アル・カポネの2人の弟のジョンとアルバート、それとルイス・カワンも捕まった。
粗暴な行動や素行の悪さでマクガーンは、捜査当局からマークされる存在となっていた。
シカゴ・アウトフィットの勢力が拡大している組織内での地位は1936年ごろには相対的に失墜しており、後年は細々と麻薬を売ったりしていたという。
1936年2月13日、バレンタインデーの前日にシカゴのミルウォーキー・アヴェニュー85番地のボウリング場にいたところ、2人の殺し屋に射殺された。
モラン一味の復讐であることを強く示唆していたが20人の目撃者がいたものの、仕返しを恐れ誰も証言するものはなく犯人は捕まらなかった。
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