サルヴァトーレ・トト・リイナ(Salvatore"TOTO" Riina)
1930年11月16日 生まれ
シチリアのコルレオーネ村のマフィアのボスだった人物
渾名は「トト・ウ・クルトゥ(ちびのトト)」という
身長は160cmと小柄。
頭の回転が速く、裏で陰謀を計画したりするのが得意だという。
マルケーゼはリイナのことを「腐ったリンゴのような奴だ。外見は良くみえても、心は腐っている。」と語っている。
パレルモ郊外のサンタ・マリア・デル・ジェズを縄張りとしていたボス
はリイナをもっとも危険な人物と恐れていたという。
また、シチリア島のマフィオーソで「オメルタ(血の掟)」を破り政府への情報提供者(pentito)となったボス
はリイナのことをコーザ・ノストラの歴史がはじまって以来最も凶悪な男といっている。
イタリア政府側に寝返ったマフィアの
サルヴァトーレ・カンチェーミ
は裁判で、リイナは裏切り者に対し
裏切り者の家族、親類
並びに血のつながりのある者の6歳以上は皆殺しにしろと命令したと証言した。
シチリアのマフィア大裁判において、リイナは52人の殺人をおこなったとして告発された。
1993年11月に法廷でブシェッタと対面した際、マフィアのボスとして
殺し屋を指揮
し、自分の家族までも殺したと非難された。
この時には、ブシェッタがマフィオーソとしては
異例の2度の離婚
を経験しているため
こんなだらしない男
とは話したくないとブシェッタに言い返した。
リイナの父親は日雇いの貧しい小作人で、リイナは5人兄弟の上から2番目で子供時代から学校には行かず、親と共に汗水たらして働いたという。
そのため読み書きはほとんど出来ない。
1943年12月、リイナが13歳のときに父親はシチリアに上陸する米軍の爆弾が爆発して死亡した。
このとき弟も1人死んでいる。
コルレオーネ・マフィアのボスで「闘将軍」と呼ばれた人物
と青年時代から組んで数多くの犯罪を行ってきたがリイナの勢いが高まることに対しボスのリッジョは危惧しはじめたという。
リイナは1960年代の初めに指名手配されるが、その後20年以上も逃亡生活をしていた。
その間、写真を撮られたことがなく、警察の捜査はうまく進んでいなかった。
噂によると、1993年に逮捕されるまで逃亡中は自由に街を歩いたりしていたという。
妻のアントニエッタ・バガレッラはコルレオーネ出身の
小学校教師
で13歳のとき、14歳年上のリイナに一目ぼれした。
1974年春、パレルモ郊外サン・ロレンツォの小さな教会で
アントニエッタ・バガレッラ
と結婚式をあげ、リイナとの子供を4人生んでいる。
リイナが逮捕後も「あの人はいい人だから、女性はみんなあの人のような夫を持つべき」と語っている。
なお、アントニエッタはリッジョの部下の
レオルーカ・バガレッラ
の妹である。
リイナのようにマフィアは同じファミリーのメンバーの血縁関係者と結婚することはよくあるという。
リイナは1970年代初期に麻薬取引を始めた。
当時は資金不足だったため、他のマフィオーソと共同で麻薬取引をしていた。
この頃リイナは指名手配中で
10億リラの賞金
がかかっていた。
多くのマフィア関係者の証言から推察すると、1974年にリッジョが逮捕されてからリイナがマフィア組織の頂点に立った。
頭脳明晰なリイナはリッジョの組織を表面的には受け継いだ。
ただ、一部の資料によると獄中のリッジョがリイナを手足のように使っていたともいわれ詳細は不明だ。
逆に、リッジョ逮捕後はリイナと
プロベンツァーノ
の2人がコルレオーネ一家の2大ボスに登りつめ、獄中にいるリッジョを組織から完全にはずしたと言う資料もある。
プロベンツァーノよりリイナの方が頭が賢く地位も多少上だった。
そのためか重要な決定はリイナがしていたという。
当初はリイナとプロヴェンツァーノの2人のボスが交代でファミリーを運営していく約束だった。
しかし、リイナがプロヴェンツァーノには1度も譲らず独裁的に仕切るようになった。
リイナ率いるコルレオーネ一派はシチリアの裏社会において大幅に勢力をのばしていった。
コルレオーネ一派が他のファミリーと違い、勢力を大きくのばしたのは隠密性にあるという。
構成員が誰かといった組織内の人定などを秘密にし、他のファミリーには明かさなかった。
さらに、コルレオーネ・マフィアは他のファミリーの構成員を殺害すると、その後釜に自分のファミリーの者を送り込んで、他のファミリーを内部から崩し、自分たちの勢力下に組み込んでいった。
リイナ率いるコルレオーネ一家はコロンビアの
麻薬カルテル
と協定を結び麻薬の取引をしていた。
ニューヨークの
ボナンノ・ファミリー
がエージェントとなりコカインを手に入れていたという。
さらに、コルレオーネ一派は委員会などによる協議をおこなわずに自分たちの気に入らない者を暗殺していった。
このような行動に他のファミリーは憤慨していた。
1980年代にリイナは最高幹部会における
ステファノ・ボンターテ
サルヴァトーレ・インツェリッロ
という強力なボスの足場を崩し影響力を徐々に弱め、重要な決定権を奪って孤立化させた。
1981年4月23日にはボンターテ、5月11日にはインツェリッロを殺害した。
リイナはそれ以外にも数多くの暗殺を命令している。
同じコルレオーネ一派のなかで、才覚があり有能な者で将来のし上がってきそうな若手を殺害したこともあるという。
1970年代から1980年代にかけて、稼いだ資金を
の頭取であった
ミケーレ・シンドーナ
などを通じてマネーロンダリングしていたとされる。
同行の破綻後に暗殺された
ロベルト・カルヴィ頭取
の暗殺にも関わっていたのではないかと噂された。
1992年にマフィア取締りの先鋒だった
ジョヴァンニ・ファルコーネ
パオロ・ボルセリーノ
の両判事をパレルモで爆弾で殺害し、市民の反感を買った。
翌1993年に逮捕され、24年間の逃亡生活が終息した。
彼は逮捕されたとき、警官に向かって「そうだ、私がリイナだ。おめでとう」と賞賛の言葉を送ったという。
リイナの逮捕は彼の元運転手
バルドゥッチョ・ディマジオ
が自分も殺されるのではないかという恐怖から政府側に密告したことが逮捕につながった。
当時コルレオーネ一家では内部で報復合戦が多発していた。
リイナが逮捕されたときリイナの容姿が小男で服装も質素であり、とてもマフィアの大ボスにはみえなかったから写真や映像を見たイタリア国民は
本当にこの男がリイナなのか
と驚いたという。
リイナが捕まり刑務所に入ったあと、リイナの悪の魅力を感じる女性たちから何十通のラブレターが届いたという。
リイナ逮捕後、自分は今まで週40万リラで生活しているといった。
警察はリイナの
6000万ドル相当の資産
を押収し、さらに1994年3月には9600万ドル相当の資産を差し押さえた。
これがリイナの資産であった。
裁判で終身刑の判決を受け、現在も収監されている。
首相就任前のみならず、首相在任当時も、国内外においてマフィアをはじめとする犯罪組織との親密な関係が半ば「公然たる事実」として扱われていた
ジュリオ・アンドレオッティ首相
との深い関係が知られていた。
実際にアンドレオッティが首相を退任した翌年の1993年には贈賄とマフィアとの癒着の容疑で検察よりアンドレオッティに捜査通告が出され、リイナとの親密な関係が暴露された。
なお、リイナの裁判の過程において、アンドレオッティはリイナが指名手配を受け逃亡中にもかかわらず、数回に渡り密会していたことが明らかになっている。
アンドレオッティは、リイナをはじめとするマフィアと政界の癒着を解明しようと捜査をおこなっていたファルコーネ判事が、リイナによってパレルモで暗殺された事件の「黒幕」とも目されている。
改心者らの話によるとリイナはアンドレオッティの暗殺を命じたことがあるがリイナが捕まり権力が
ベルナルド・プロベンツァーノ
に移り実行されなかったという
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