サルヴァトーレ・"ビル"・ボナンノ
Salvatore "Bill" Bonanno
(1932年 - 2008年1月1日)
米国犯罪組織であるニューヨークの五大ファミリーのひとつのボナンノ一家の創設者
ジョゼフ・ボナンノ
の息子で3人兄弟の長男。
妻のロザリーはコーサ・ノストラの幹部で、旧プロファチ一家(現在のコロンボ一家)のボス
ジョゼフ・プロファチ
の弟のサル・プロファチの娘である。
ビルが10代の頃にはメキシコへ銃を売りさばいている不良グループと付き合っていた。
また、若い頃は弁護士か外交官になろうと考えていたという。
朝鮮戦争が始まるとビルは徴兵され
予備役将校訓練部隊
に入隊した。
そこでの規律に縛られた軍隊が気に入り職業軍人になろうか真剣に考えたという。
軍隊から除隊し、1954年の春に
オース・オブ・オフィス(宣誓式)
を行いコーサ・ノストラの一員になった。
1955年にロザリーにプロポーズをし1956年に結婚
シェラトン・アスター
で行われた披露宴には
トニー・ベネット
フォーラッズ・シック・カンブリア・オーケストラ
や全米24のファミリーすべてが出席した。
また、上院議員、下院議員、判事も宴会にいて3000人を越える招待客が来た。
そのあとで結婚式がブルックリンの聖ベルネデッテ教会で行われた。
翌日ハネムーンでシチリア・パレルモに到着したところターミナルには200〜300人の人々が2人を歓迎した。
宿に泊まっているときに
ジョゼッペ・マガディーノ
(ピーター・マガディーノの父親)
と名乗る老人からボナンノ家と
ブチェッラート一族
の争いの話を聞いたりして時を過した。
ドイツ国籍を持つ女性ヘルガと不倫関係になり、ビルとの間に子供もできてしまい妻のロザリーとの仲がギクシャクした。
プロファチ一家(現在のコロンボ一家)に属していたマフィアのメンバー
ジョゼフ・マグリオッコ
に仲介をたのみ和解、その後、ヘルガとは関係を絶った。
なお、マグリオッコがプロファチ一家のボスの座のことで、もめていた時に自ら支援に行った。
ジョン・エドガー・フーヴァーが地位を脅かされているのは
賭博中毒者
でマフィアと知り合ったことになったからだといった裏話を信じていたビルはフーヴァーが女装している写真を、マフィアと政府の交渉役であった弁護士
ロイ・コーン
から見せてもらい真実を知ったと言われる。
ハイチ政府の代理人を自称する人物と会い、かつてNY等の各ファミリーが営んでいたカジノや他のビジネスが放置されているのでボナンノ一家にそれを再開してほしいと頼まれる。
そのためハイチへ赴きハイチの大統領で独裁者であった
フランソア・デュバリエ
と会いボナンノ一家が唯一のカジノ運営者だと保証するとの約束を得た。
1966年1月下旬にフランクとカール・シマリとジョー・ナタロで
ガスパー・ディグレゴリオ
と会合をしにブルックリンのリッジウッド地区のトラウトマン・ストリートに出かけたところディグレゴリオが急に体調が悪くなったと電話が入り会談が中止になった。
その帰りにビルは殺し屋たちに襲われ撃ち合いになった
トラストマン・ストリート事件
では無事ですんだ。
しかしこの事件で警察の捜査の協力を拒否したことから法廷侮辱罪に問われたが保釈金を払い身柄は自由になっている。
1968年に父親のジェゼフ・ボナンノと一緒に引退した。
1969年37歳になったビルは郵便詐欺、偽証謀議の容疑で裁判で5年の実刑を言い渡された。
実刑である20年のうち11年を刑務所で過ごしたものの、その後、9年も保護観察か仮釈放の状態にいた。
刑務所の中ではマフィア組織シカゴ・アウトフィットの大物
ジョン・ロッセーリ
と会いダラスでのケネディ大統領暗殺事件のことなどの話をしたという。
後半生はアリゾナ州ツーソンで暮らし、2008年1月1日に75歳で死去した。
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2013年08月12日
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