トンマーゾ・ブシェッタ(Tommaso Buscetta)
1928年7月13日 – 2000年4月2日
シチリア島のマフィオーソで「血の掟」とも呼ばれる
オメルタ
を破り、イタリア政府に協力し最初の人物である。
シチリアの男のなかでは多くが
周囲から名誉ある男
と思われたいという理由からマフィア組織に17歳で入った。
第二次世界大戦後、敗戦国のイタリアでは連合国の占領により生産設備等が接収されたことにより産業の再開が遅れ
経済的な混乱
が収束しなかった。
捜査当局では数多くの麻薬取引で悪名を馳せたが、本人は麻薬を扱ったことは1度もないと言い、麻薬取引を強く否定している。
トンマーゾ・ブシェッタが所属したシチリアマフィア組織のボス
ジュゼッペ・カロ
とは1950年代初頭からの35年の付き合いがある。
カロが自分を差し置いてボスになった後も、トンマーゾはカロを立て、昔と変わらない付き合いをした。
暗黒街では敵からも味方からも
ドン・マシーノ
と呼ばれていた。
女性には非常にもて22歳の頃には殺し屋として名が知れていたという。
シチリア島北西部に位置する都市パレルモでガラス加工の職人を父親に持つ裕福な家庭11番目の子で末っ子だった。
ブシェッタは生まれた時に両親は共に44歳だった。
17歳で20歳の
メルキオーラ・カヴァーロ
と結婚、その直後にマフィア組織に入る。
その1年後に最初の子供が生まれる。
その頃は父のガラス加工の仕事をするかたわら、闇市で物資を売りさばいていた。
1947年に
サルヴァトーレ・ジュリアーノ
と会っている。
このときにジュリアーノに抗争に誘そわれたが、一緒にいた
サルヴァトーレ・グレコ
が断っている。
1949年に妻と2人の子供も連れてアルゼンチンに移住した。
1950年にブエノスアイレスで3番目の息子が生まれた。
アルゼンチンでは思っていたほどの生活はできなかったため、1950年の終わりごろにブラジルのサンパウロに移り、そこで
コンカ・ドーロ
というガラス店を設立し生活を始めた。
ブラジルのサンパウロでの生活も軌道に乗らず
は家族とともに1952年の終わりに店を売り払いイタリアへ帰ることにした。
ただ、この南米でのブシェッタの生活には謎が多いと言われている。
帰国後に本格的にマフィアの活動を始め、ポルタ・ヌオーヴァ地区の
ラ・バルベーラ・ファミリー
の一員として、ゆすりと煙草の密売をする。
1958年3月にローマで煙草の密売と犯罪関与の罪で初めて逮捕された。
その後も、麻薬密売、武器不法所持、強盗、恐喝、殺人、死体遺棄などで逮捕されたが、そのたびに証拠不十分で釈放される。
50年代後半から60年代の初めにかけては、ミラノやコート・ダジュールなどで生活をしていた。
このときミラノでは
とも親しく付き合っていたという。
ブシェッタがマフィアに入った頃、ちょうどマフィアが農村から都市へ進出した頃に都市型に変質し、構成員を大幅に増やした時期と重なった。
50年代のイタリアの経済成長と一緒にマフィアも成長した。
しかし、60年代に入ると、公共事業、麻薬、煙草密輸の主導権争いで抗争が起きた。
このときの抗争を
第1次マフィア戦争
の抗争にブシェッタのいるラ・バルベーラ・ファミリーもいた。
ブシェッタは自分のファミリーを裏切り
サルヴァトーレ・グレコ
のファミリーに寝返り勝利に導いた。
なお、このとき
を襲った殺し屋の一人がブシェッタだという。
NYのガンビーノ一家のボス
は名誉ある男の地位に登りつめていた犯罪組織のボスとして組員の統率が乱れ、司法当局に目をつけられることを懸念し
麻薬ビジネス
などというものは漢の行うものではないとして反対していた。
麻薬は販売目的だが、自己消費する組員も恐怖心を抑えたり、快楽を求める者が増え、自制心が聞かなくなり無意味な殺戮を行うこととなり、麻薬の影響で組織への忠誠心も損なわれるといったことが背景としてあった。
アメリカにヘロインを持ち込もうとした
に対し、ガンビーノはバルベーラを尊敬してるし大事に思っていると形式的な尊敬の言葉を与えたうえで、アメリカに麻薬を持ち込むのなら殺さなければならないだろうと警告のメッセージを送った。
その後、抗争に目をつけた警察が本格的にマフィア弾圧に乗り出し、150人以上が逮捕された。
ブシェッタにも逮捕状が出たが、彼は妻を捨て
ヴェーラ・ジロッティ
という愛人とアメリカへ逃亡した。
1965年にアメリカへ渡ってきて
マヌエル・ロペス・カデーフ
という偽名でジロッティと結婚した。
最初はカルロ・ガンビーノに仕事の世話をしてもらったりした。
1966年の終わりごろにはガンビーノから金を借りピザ屋を始めた。
ピザ屋は繁盛し、息子たちに任せたという。
アメリカに住んでいたときはカルロの弟の
パオロ・ガンビーノ
やポール・カステラーノともつるんでいた。
表家業ではピザ屋だが、裏では麻薬取引をしていたといわれている。
やがて米国への密入国がばれ、国外追放になりブラジルに移住した。
ブシェッタは1971年6月に不法入国で米国から国外追放の処分を受け、ブラジルのリオデジャネイロに行った。
そこで、ブシェッタは20歳年下の
クリスティーナ・グイマレス・デ・アルメイダ
という女性と出会い結婚した。
彼女の父親は弁護士で、ブシェッタは
トンマーゾ・ロベルト・フェリーチェ
という偽名を使ってその法律事務所で働いたという。
この頃頻繁にイタリア、アメリカ、カナダに出入国し麻薬取引をしていたと言われている。
1970年代にブラジルで生活しているときに、カモッラのボスの
アントニオ・バルデッリーノ
と親しくなり麻薬取引で協力関係を持った。
ブシェッタと敵対していたコルレオーネ一派と協力関係にあったカモッラのヌヴァレッタ・ファミリーとバルデッリーノ・ファミリーの間で抗争が起きている。
1972年10月に麻薬密輸で逮捕され警察の取調べで手荒な拷問を受けたmののマフィアについては一言も話さなかったという。
何も聞けないとわかるとブラジルから追放されイタリアへ身柄を引き渡された。
イタリアで刑務所に収監中にジョゼッペ・カロに対し不信感を持つようになる。
8年間刑務所に入ったが、その間、毎日のように妻のクリスティーナは面会に来たという。
1980年6月に仮釈放のときに刑務所に戻らずに逃亡した。
その頃に、ボスのカロや友人の
ステファノ・ボンターテ
サルヴァトーレ・インツェリッロ
と会い、組織の中で再び活動しようと再計画を練った。
ルチアーノ・リッジョ、サルヴァトーレ・リイナらのコルレオーネの一家とボンターテ、インツェリッロの間が麻薬取引をめぐり険悪になっていた。
ブシェッタはカモッラの
ヌヴァレッタ・ファミリー
バルデッリーノ・ファミリー
両派の仲裁に立とうとしたが失敗したため1981年1月にブラジルに戻っている。
ブラジルにいる間にシチリアのステファノ・ボンターデとサルヴァトーレ・インツェリッロがコルレオーネ村のサルヴァトーレ・トト・リイナの放った暗殺者に始末された。
ブシェッタはコルレオーネと対立するボスの
ガエターノ・バダメンテ
と連絡を取り反撃の計画を練った。
計画がサルヴァトーレ・トト・リイナ側に察知され1982年に2人の息子アントニオとベニデットが誘拐され行方不明になった。
2人は最初の結婚で出来た子だった。
その後もブシェッタの兄などの肉親が殺される事件が続いた。
そのため、リイナを暗殺する計画を捨てたという。
1983年10月24日にはサンパウロで麻薬の国際取引で逮捕され、刑務所内で
ピッポ・カロ
が弟と2人の息子を殺害したという知らせを受けた。
翌年の7月3日にイタリア政府に身柄が引き渡された際、隠し持っていたストリキニーネを飲み自殺を図ったが失敗、直後に司法当局に協力するようになった。
1984年7月16日に組織について告白する。
告白の理由についてマフィアが本来あるべき「名誉ある漢」といった姿ではなく殺人集団に成り下がったことに幻滅したという。
本来はシチリア島では弱者を助ける信義ある人々だったという。
しかし、ブシェッタの告白は自分と対立する者のことばかりであったため自分の利害に反する邪魔者を消すという意味だったとも考えられる。
敵対するファミリーへ捜査当局の力を借りての復讐という見方もある。
告白のとき組織の名前を
「コーサ・ノストラ・シチリアーナ」
と話し、コーサ・ノストラを歪め、価値を失わせたのは麻薬取引だと言ったという。
ただ、ブシェッタは告白をしたが
ヴィート・チャンチミーノ
以外の政治家の名前は誰一人として出していない。
普通マフィアの大物なら極刑か終身刑となるがブシェッタは政府に協力したということで4年の刑ですんでいる。
その後、麻薬密輸の裁判の証人としてアメリカ政府に貸し出された。
マフィアの殺し屋の追及をかわすため、アメリカで整形手術を受けたとも言われる。
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