ベルナール・タピ(Bernard Tapie)
1943年1月26日生まれ
フランスの実業家、政治家、俳優
フランスサッカー1部リーグ(リーグ・アン)
オリンピック・マルセイユ
の元会長
第2次世界大戦最中、ナチス・ドイツが占領していたパリ郊外のル・ブルジェで貧しい工場労働者の子として生まれた。
地元の工業高校を卒業後は兵役に就いた。
年期明けで除隊した後はテレビのセールスマン、歌手、F3のレーサーなど様々な職業を経験した。
コンサルタント会社に1970年に入社し経営ノウハウを磨いた。
フランス国内では1970年代のオイルショックの影響により深刻な経済不況に陥っており、タピは時機到来と判断して1977年に独立、製本会社の
ディゲードゥニ
を皮切りに破産寸前の中小企業を次々に買収した。
安価に手に入れた企業の無駄を削ぎ、利益を高める措置を講じて経営を安定化させて再建させるという企業再建ビジネスを手掛け、その手腕を知られるようになった。
フランス政府による経済政策が失敗に終わり1980年代に入った後の実質経済成長率も停滞を続けた。
こうした長い経済危機の時代に労働者階級のタピが経済界に風雲児として登場し企業再建で数々の成功を収めたこが学生や若い起業家の間から「成功のシンボル」として高い支持を得た。
1984年に電池会社の
ウォンダー
を3000万フランスフランで買収した。
経営悪化した事業を再編させて5年後に売却し4700万フランスフランの収益をあげた。
その後も重量機器メーカーのテライヨンとテシュを買収した。
また、フランスの民放テレビ局TF1の1.7%の株式を取得しtえいる。
これらの株式を「ベルナール・タピ・ファイナンセス」(BTF)として再編し1989年1月にパリ証券市場に上場した。
ただ、フランス国内でのタピの評価は大きく二分している。
一部のメディアから「詐欺師」として扱われていた。
1990年7月に世界的スポーツブランドの
アディダス
の株式の過半数を所得し経営権を獲得した。
1990 FIFAワールドカップ決勝を翌日に控えた同月7日、決勝戦会場となるローマにおいて会見が開かれ、フランス企業によるアディダスの保有する株式の過半数取得は、仏独両国の友好関係を象徴するものだと宣言した。
ただ、この出来事がフランスとドイツの社会に与えた影響は大きく、ドイツの一部メディアではドイツの象徴ともいえる企業が買収されたことは国家的悲劇だと書き立てた。
しかし、タピの力量ではアディダスの経営状態を立て直すことは出来ず、1992年に
クレディ・リヨネ
から融資の返済を迫られると同銀行に株式を売却して経営から退いた。
なお、株式の過半数を所持していたアディダス株をタピが売却する際、クレディ・リヨネがアディダスを安値でタピから買い上げた。
その後に、タピに融資金の返済を要求し破産させたことが不正であるとして、1995年に同銀行およびその債務整理機構を訴えた。
2005年9月30日に裁判所はクレディリヨネに対し
1億3500万ユーロ
の支払いを命じた。
これに対し、2006年の控訴院判決によって破棄されたものの、2008年の調停裁判所によりクレディ・リヨネに対し2億8000万ユーロの賠償金をタピに支払うように命じている。
主要ロードレースで数多くのタイトルを獲得したことでも知られる自転車競技レーサー
ベルナール・イノー
は1984年、前年まで所属していた自転車ロードレースチーム
ルノー・エルフ
のチームリーダーの座を
ローラン・フィニョン
に奪われた。
これを聞いたタピはイノー自らが新チーム結成する動きに協力し、自身が当時経営していた、健康食品チェーン店の
ラ・ヴィ・クレール
をそのままチーム名にして結成させた。
タピは同チームのマネジャーに就き、イノーに加え
グレッグ・レモン
らもルノー・エルフから引き抜いた。
1985年にイノーが、1986年にレモンがそれぞれツール・ド・フランスで総合優勝を果たした。
1986年にサッカークラブ
オリンピック・マルセイユ (OM)
を買収し同クラブの会長に就任した。
1980年代のマルセイユは2部リーグへの降格を経験するなど成績が低迷しており、当時のマルセイユ市長は地元のシンボルであるOMの成績不振が政治に悪影響を及ぼすことを懸念した。
タピにクラブの買収を持ちかけた。
タピは豊富な資金力で多くの有力選手を獲得、ランス国内を始め、UEFAチャンピオンズカップにおいても常に上位進出し、1980年代後半にはパリ・サンジェルマンFCとの対戦を
ル・クラスィク
と命名し、試合の盛り上がりに一役買った。
1993年にUEFAチャンピオンズカップを制する等、有数の強豪クラブへと成長させた。
しかし、1993年5月20日に行ったフランスサッカー1部リーグ
ヴァランシエンヌFC戦
において八百長行為が発覚した。
関与したマルセイユの幹部が警察に逮捕され、フランスサッカー連盟 (FFF) は制裁措置として同年9月20日に同クラブの1993-94シーズンのチャンピオンズリーグとインターコンチネンタルカップの出場権を剥奪すると、その後1994-95シーズンからの2部リーグ降格処分が決定した。
FFFは事件に関与した3選手に対する1996年7月までの国内でのプロ資格停止と、タピに対し無期限で会長職を退任させる処分を下した。
複数の関係者の証言から警察の捜査はタピ自身にも波及し1995年5月15日に裁判所により懲役2年の判決を受けた。
なお、同年11月28日の上告審では8ヶ月に減刑されたものの、罰金2万フランと3年間の議員資格剥奪が言い渡された。
タピは社会党 (PS) に入党すると、1988年の国民議会議員選挙にブーシュ=デュ=ローヌ県から立候補し当選した。
翌1989年には人種差別を公言する国民戦線党首の
ジャン=マリー・ル・ペン
を糾弾したことでメディアの登場し注目された。
1992年から1993年には
の都市問題担当大臣を務めた。
同年に社会党を離党し『左翼急進運動』に加わり「急進エネルギー」を結成した。
同党を率いて1994年6月の欧州議会議員選挙に臨み、234万4457票(12.03%)を得て13議席を獲得した。
なお、タピに対して「ベルナール・タピ・ファイナンセス」の横領事件が発覚すると議員特権が捜査の障壁になるとして、下院特別委員会が開かれ、1993年11月に賛成多数でタピの議員特権剥奪が可決、1995年の裁判の判決により政治家生命に終止符を打った。
この刑期を終え身分が回復した後も表立った政治活動は行っておらず、大統領選挙において特定の候補者の支持を表明するに留まっている。
2007年フランス大統領選挙では社会党から立候補した初の女性候補セゴレーヌ・ロワイヤルではなく、国民運動連合 (UMP) から立候補したかつての政敵ニコラ・サルコジを支持した。
政界から距離を置いたタピは1996年、クロード・ルルーシュが監督を務める「男と女、嘘つきな関係 Hommes, femmes, mode d'emploi 」に出演し、実業家役を務めた。
2000年には1975年に公開されたアメリカ映画の『カッコーの巣の上で』の舞台化に出演し主人公のランドル・パトリック・マクマーフィー役を演じた。
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