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2013年04月02日

伊藤伝右衛門 筑豊一代「炭坑王」

 
伊藤伝右衛門

  1861年1月6日(万延元年11月26日)
           - 1947年(昭和22年)12月15日
 
 
 明治・大正・昭和の実業家
 2番目の妻で大正三美人の1人とも言われる歌人
   Y子(柳原白蓮)
との離婚劇でその名を知られる。
 
 
 筑前国穂波郡大谷村幸袋(現 福岡県飯塚市幸袋)の貧しい家に生まれ、幼い頃には縁戚の家に預けられ丁稚奉公などして成長した。

 明治中期になり、父の伝六が小規模ながら炭鉱経営を軌道に乗せ、伝右衛門の生活も安定し始めた。
 
 1888年(明治21年)、士族の娘ハルと最初の結婚をした。
 1899年(明治32年)に父が病没すると炭鉱の経営を引き継ぎ1909年 (明治42年) に
   伊藤鉱業
     (後に大正鉱業に改称)
を設立、良質の鉱脈にも恵まれて事業を拡大していった。

 政友会より衆議院議員に当選、1907年(明治41年)まで務めた。
 
 第十七銀行(戦時統制により福岡県内の銀行を統合する形で設立した福岡銀行の前身)の取締役も務めた。
 
 伝右衛門は炭鉱経営で巨万の富を築いたのち社会への還元にも心がけ、1910年(明治43年)には嘉穂郡立技芸女学校(福岡県立嘉穂東高等学校の前身)の創設にあたり資金を寄付した。
 また、1915年(大正4年)には社団法人伊藤育英会を設立するなどしている。

 1910年(明治43年)妻のハルと死別した。

 翌1911年(明治44年)に日野資明を祖とする藤原北家の支流である日野家の流れを汲む
   柳原前光伯爵
の娘 Y子と再婚した。
 新郎新婦とも再婚で、Y子の兄 義光の貴族院議員出馬資金調達と伝右衛門側の名門との結びつきを求める利害が一致したもので伝右衛門は数え52歳、Y子は数え27歳と親子ほども年の差の離れた政略的な結婚であった。
 
 伝右衛門は飯塚の本邸に加え、福岡市薬院と別府市山の手に
   「あかがね御殿」
と称された豪奢な別邸を造営して新妻を迎え、歌集の出版資金を出したりもしている。

 叩き上げの実業家で川筋気質、女性関係の出入り激しい伝右衛門の伊藤家には伝右衛門の妾らも一緒に暮らしており、公家の令嬢として育ち歌人として既に世に出ていた文化人肌のY子との夫婦仲は冷たいものであったようだ。

 Y子が雑誌「解放」の執筆者仲間で新聞記者の
   宮崎龍介(宮崎滔天の長男)
と恋仲になり、1921年(大正10年)10月20日に上京中に宮崎と出奔して同年10月22日付大阪朝日新聞夕刊に
   公開絶縁状
を突然発表するに至り、両者の関係は完全に破綻した。
 
   ・ 恋ひ歌―宮崎龍介と柳原白蓮
  

 京都の柳原邸に滞在中に公開絶縁状に接した伝右衛門は驚き、大阪毎日新聞に連載で反論を寄せたが、Y子と宮崎を姦通罪で訴えることもしなかった。
 
 なお、伊藤家の家人らがY子に憤るのにも一喝し押し止めている。
 
 1923年(大正12年)、伝右衛門が起こしたY子が産んだ男児(香織)の父親を確認する訴訟に伝右衛門の子ではないと判決が下り、両者の離婚が成立、Y子は宮崎と再々婚している。

 伝右衛門はその後は生涯後妻を迎えることなく、炭鉱始め多くの企業の経営に奔走した。
 太平洋戦争中には自費で戦闘機等を献上したり、あかがね御殿を海軍に無償提供したりしている。

 伝右衛門自身は生涯を通じて文盲であったと言われている。



   
  
 
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   筑豊一代「炭坑王」伊藤傳右衛門
  
 
  
posted by まねきねこ at 19:39| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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