1794年(寛政6)−1873年(明治6)
江戸時代、は生糸の取引で財をなした「鑓水商人」のひとり
八王子市鑓水村百姓
甚兵衛
の長男として生まれた。
永泉寺和尚の門に入り、漢字を学んだのち1812年(文化9)村の児童に習字を教えるようになった。
五郎吉は当時の百姓としては、めずらしく教養を身につけた文化人の糸問屋だった。
村人から選ばれ年番名主をつとめ、多くの文書を残している。
反面では訴訟ごとを好んだ
「鬼の五郎吉」
と呼ばれて恐れられた糸商人であった。
しかし、その多くは手広く商売を行っていたため商売上のもめごとが原因のものとみられる。
横浜と取引き記録は1860年(万延元年)に「乗合い」と称する
共同出荷方式
が浜出しの場合採られていた頃まで遡り、横浜商人との生糸取引でも財をなしていった。
1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に黒船で来航、威圧的に開国を迫る行為に脅威を感じた勘定奉行の川路聖謨らが動き、幕府は江戸の直接防衛のために
海防の建議書
を提出した伊豆韮山代官の
江川英龍
に命じて、洋式の海上砲台を建設させた。
建議書では品川沖に11基の台場を一定の間隔で築造する計画であった。
この工事は再来までの1年の短期間で急ピッチで進められ、およそ8ヶ月の工期で1854年(安政元)ペリーが浦賀に来航したペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部は完成した。
品川にお台場(品海砲台)が作られ、松木丸太が鑓水のおばやし御林からも切り出しが行われた際にも協力した。
なお、この丸太はお台場に今でも残っている。
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