1846(弘化3)年9月8日
−1928 (昭和3)年2月25日
新潟市秋葉区(旧新津市)で商業油田を掘り当てた日本一の石油王
自宅は「中野邸美術館」として公開されている。
中野家は越後国中浦原郡金津で代々
庄屋(里正)
をつとめていた豪農(名主)として知られており、文化元年(1804年)中野貫一の曾祖父
次郎左衛門
が草生水油(石油)採取権を190両で買取った。
「泉舎」と号して
「草生水油稼人」
を兼業とするようになった。
越後ではもともと、自然に石油が浸出している溝を「坪」と称し
「かぐま草」 など
ですくい取り、農民の灯火用に販売していた。
この草生水油稼人は世襲的独占事業として認められており、越後地方の各地に稼人がいた。
この事業の稼ぎは、封建諸侯の課税の対象ともなっていた。
貫一は14才で父を亡くし、庄屋の地位と「泉舎(イズミヤ)」を引き継いだ。
貫一が27才の時、1873(明治6)年に明治政府から
「石油坑法」
が公布された。
直ちに新潟県庁に石油試掘を出願し許可を得て翌1874(明治7)年9月、自分の所有地内に草生水場を開坑して若干の出油には成功していた。
しかし、産出量はその後も掘削しても生産量が一向に増えることもなく低調なまま1886(明治19)年まで産出が停滞していた。
何箇所か試掘を進めた結果、塩谷地区で大幅に産出する井戸を掘り当て成功をおさめ、3600リットル/日の採油を得るところまで成功した。
新潟県令(知事)に永山盛輝(薩摩藩士)県令の後任として、明治7年の征蕃の役徴集隊指揮副長だった
篠崎五郎
が兵庫県大書記官から昇進して知事に就任(明治18年4月18日〜明治22年12月26日)した。
1886(明治19)年6月3日篠崎五郎知事名で中蒲原郡塩谷村内の石油坑区6か所に対し
共同油井
が坑法違反に当たるとの判断を下し、塩谷区域の坑業禁止・油井および借区権没収の命令(塩谷事件)を行った。
この採掘禁止命令の不当性を中野貫一や九鬼義孝、眞柄富衛、鶴田熊次郎らが県・政府に対し主張し5年に及ぶ請願運動を続けた。
虎の意を借る狐のごとく薩長土肥で構成された明治政府の影響力を背景として、薩摩藩士でもあった県令の命令を取り消させるような主張が簡単に裁判所が受け入れることはなかった。
他の者が圧力に屈して脱落するなかでただ一人中野貫一がこれを不服として明治24年(1891年) に
抗業禁止令取消
を行政裁判所へ訴え勝訴した。
これにより賠償金35,000円を得ることができた。
中野貫一は、訴訟手続き中であった1888年(明治21年)に
内藤久寛
山口権三郎
らが設立した
有限責任日本石油会社
(日本石油の前身)
の創立において発起人として参画している。
新潟県刈羽郡石地村では1891年
石坂周造
らによって日本で初めて機械による掘削が成功し尼瀬油田の石油開発ブームが起きた。
最初の試掘(1874年)から29年目の1903(明治36)年、金津鉱場開発の端を開き、初めての
商業規模の油田
を掘り当て、明治後期の二大石油会社であった
日本石油
宝田石油
に次ぐ大産油業者に成長する道を歩み、明治、大正時代に「石油王」と呼ばれるに至った。
なお、宝田石油は新潟県三島郡出雲崎町で東山油田をもとに1893年(明治26年)に創業、1921年(大正10年)、日本の二大石油会社であった日本石油と合併している。
このあと、朝日、柄目木、天ケ沢と事業を拡大し、1910(明治43)年頃には
日産 2,361キロリットル
を産出するまでになった。
さらに、秋田県や北樺太の石油開発にも手を広げるようになった。
1918(大正7)年に100万円の資金で
中野財団
を設立し、教育や社会福祉事業を始めるようになり旧金津小学校講堂などを寄付するなど近隣の小学校にも寄付を行っていった。
また、金津掘出神社(関連情報)は金津村内に12社まつってあったのを現在の1社にまとめた。
1906(明治39)年に金津村の村長に就任したものの1909(明治42)年に
原油のため池
が決壊し、水田に油が流失する被害を出した責任を取り村長や鉱業会の会長を辞任している。
1906(明治39)年に中央石油(株)を設立し、社長に就任した。
1914(大正3)年に中野興業株式会社を創業
石油、林業、土地開発等の事業
を手掛けるようになった。
なお、中野興業は1942(昭和17)年帝国石油に合併されている。
石油事業から農地の開墾、教育への還元など常に自分の出身地への貢献で責任を持った活動を行い終生金津を離れることはなかった。
これは、日本石油、宝田石油が本社を東京に移転させたことと対照的であった。
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