(嘉永2年(1849年) - 明治22年(1889年))
日本の江戸時代後期の武士(福井藩士)で明治期の実業家。
昭和期の内閣総理大臣
吉田茂
は養子、英文学者の吉田健一は養孫に当たる。
越前福井藩士(藩主 松平春嶽)
渡辺謙七
の長男として誕生する。
のち、絶家していた渡辺家の一門 吉田家を再興した。
1864年に脱藩して大坂で医学を、次いで長崎で英学を学んだ。
1866年にはイギリス軍艦でイギリスへ密航し、2年間、英国に滞在して西洋の新知識を習得した。
1868年に帰国、一時新潟に居住したのち横浜に移って英国商社
ジャーディン・マセソン商会
横浜支店(英一番館)
の支店長に就任した。
日本政府を相手に
軍艦や武器、生糸
の売買でめざましい業績をあげ莫大な利益を英国企業にもたらした。
3年後にはマセソン商会を退いて起業し、慰労金1万円を元手に様々な事業を展開した。
英学塾を皮切りに、翌1872年には
東京日日新聞
の経営に参画した。
さらに、醤油の醸造業や電灯会社の設立、ビールやトタン、フランネルの輸入など、実業家としての頭角を顕して横浜有数の富豪に成長した。
東京日日新聞の経営参画を通じ、自由民権運動を推進していた板垣退助や後藤象二郎、竹内綱ら、自由党の面々と誼を通じて同党を経済的に支援した。
特に旧土佐藩士の竹内とは昵懇の関係にあり、西南戦争にともなう1878年の保安条例公布によって東京を追放された際には、横浜の吉田邸に身を寄せている。
1881年8月には、竹内の五男 茂(後の総理大臣)を養嗣子とする。
生来心身頑強だったが、1888年の父 謙七の死去後に病を患い横浜にて急死した。
享年40歳だったという。
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