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2012年03月20日

小林 一三(こばやし いちぞう) 阪急東宝グループの創業者

小林 一三(こばやし いちぞう) 
   1873年(明治6年)1月3日
       - 1957年(昭和32年)1月25日
 日本の実業家 
 阪急電鉄や宝塚歌劇団をはじめとする
   阪急東宝グループ
     (現・阪急阪神東宝グループ)
の創業者
 阪急電鉄の前身
   箕面有馬電気軌道
をはじめ、交通、住宅地経営の不動産業、阪急百貨店の小売業、宝塚歌劇団、阪急ブレーブスの興行業など阪急東宝グループを成す数多くの事業を興したことで知られる。
 山梨県出身で阪急東宝グループの各事業での成功により財界で重きを為すに至った。
 グループ以外にも東京電燈の経営に参画したり、第2次近衛内閣の商工大臣、1941年(昭和16年)から貴族院勅選議員、幣原内閣で国務大臣、初代戦災復興院総裁を歴任した。
 第2次世界大戦後、連合国の進駐により、公職追放となった。
 号は逸翁、別号に靄渓学人、靄渓山人

 明治時代には若尾逸平、根津嘉一郎ら山梨県出身の実業家が郷土意識に基づく緩やかな資本提携により経済界や東京府政に影響力を持ち甲州財閥と呼ばれたものの関西を中心に活動した小林は地方財閥と見なされており、表向きは甲州財閥とは区別される。
 実業界屈指の美術蒐集家、また茶人としても知られ、集めた美術品の数々は、彼の雅号をとって
   逸翁コレクション
と呼ばれている。
  
 近代日本料理の創始者とも言われる
   湯木貞一
と親交が深く、彼が開いた
   料亭 吉兆
の初期の頃からの客となっている。

 山梨県巨摩郡河原部村(現在 韮崎市)の商家に生まれたがすぐ母が死去、父とも生き別れおじ夫婦に引き取られた。
 高等小学校から東八代郡南八代村の加賀美平八郎が経営する
   私塾 成器舎
を経て後に上京し、1888年(明治21年)2月福澤諭吉が学長の慶應義塾に入学した。

 慶應義塾大学卒業後の1892年(明治25年)に
   三井銀行
     (三井住友銀行の前身)
に勤務、34歳まで勤めて東京本店調査課主任にまで昇進した。
  
 日露戦争終結後、三井物産の大物である
   飯田義一
や、かつての上司で北浜銀行を設立した
   岩下清周
に誘われ、大阪で岩下が設立を計画する証券会社の支配人になるために1907年(明治40年)、大阪へ赴任した。
 直後、恐慌に見舞われ証券会社設立の話は立ち消え妻子を抱えて早速失業した。
 その頃、小林は
   箕面有馬電気鉄道
の話を聞き電鉄事業将来に有望性があるとして岩下を説得して北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功した。
 1907年(明治40年)6月に箕面有馬電気軌道と社名を改めて同年10月に設立されると、小林は同社の専務となった。

 箕面有馬電気鉄道は、鉄道国有法によって国有化された
   阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)
の関係者が福知山線に並行する電気鉄道路線を敷設して、大阪の梅田から箕面・宝塚・有馬方面へ頻発運転を行うことを目的として設立したものの恐慌に見舞われて、全株式の半分も引き受け手が無いといった苦境に追い込まれる状況にあった。
 そのため、社長の成り手はなく不在であったため、小林が経営の実権を握ることができた。

 箕面有馬電気鉄道は1910年(明治43年)に開業した。
 しかし、当初の計画とは異なり、資金不足等から有馬までの開業ではなく、現在の宝塚線・箕面線に相当する区間にとどまっていた。
  
 小林は線路通過予定地の沿線土地を事前に買収し、郊外に宅地造成開発を行うことで付加価値を高めようと目論んだ。
 1910年(明治43年)にサラリーマンでも購入できるよう、当時はまだ珍しかった月賦方式による分譲販売を行い成功を収めた。

 同年11月には箕面に動物園、翌年には宝塚に大浴場「宝塚新温泉」を開業した。
 1914年(大正3年)4月は、当時人気を得ていた
   三越の少年音楽隊
を模して宝塚唱歌隊、後の宝塚歌劇団を創り上げた。

 沿線開発の影響で鉄道を利用する乗客が増加した。
 続いて神戸方面への路線開業に動き出した時期に会社名を
   阪神急行電鉄
と改め、神戸本線などを建設した。
  
 大阪・神戸間の輸送客の増加とスピードアップを図った経営が現在の阪急を創り上げる支えとなった。
 1927年(昭和2年)に小林は社長に就任した。

 1920年(大正9年)には日本ではじめての
   ターミナル・デパート
を設ける計画を進めた。
 路線の起点となる梅田駅にビルを建設し、1階に東京から白木屋を誘致し開店、2階に阪急直営食堂を入れた。
 次いで「阪急マーケット」と称した日用品販売店を2・3階に入れた。
   
 1929年(昭和4年)3月にはついに
   阪急百貨店
という直営百貨店を新ターミナルビルの竣工に合わせて開店させた。
 当時、鉄道会社が直営で百貨店を経営するなどといった事例は海外にも無かった。
  
 素人としての百貨店の成功は、1929年(昭和4年)に
   六甲山ホテル
の建設・開業といったホテル事業など派生事業の拡充に進んだ。
 1932年(昭和7年)の東京宝塚劇場、1937年(昭和12年)の東宝映画の設立(1943年に両者は合併し、現在の「東宝」となった。)といった興業・娯楽事業、1938年(昭和13年)の第一ホテル(東京・新橋)の開設と更なる弾みを付ける契機となった。

 ただ、日本で3番目のプロ野球球団である
   宝塚運動協会(1929年解散)
のように、先進が過ぎて失敗した事業も多い。
 小林の行った鉄道関連事業の拡大策は甲府財閥が出資していた他の私鉄経営にも大きな影響を与えた。
 その中でも目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)の総帥五島慶太、伊豆箱根鉄道・西武多摩湖線・近江鉄道の堤康次郎は、小林の影響を強く受けているといわれている。

 阪急社長を1934年(昭和9年)に辞任後、電力戦で設備が余剰気味になり放漫経営に陥っていた
   東電(東京電燈)
に招かれて副社長・社長を歴任し経営を立て直した。
 また、昭和肥料(現在の昭和電工)の設立にも関わった。
 一時期、大谷竹次郎が東宝の社外取締役になったのと引き替えに
   松竹
の社外取締役に就任した。
  
 第二次近衛内閣で小林は商工大臣となった。
 当初、近衛は当初岸信介を商工大臣に考えていたが、岸は財界の人間を大臣として自らは次官にとどまることを希望したため小林が大臣となった。
 統制経済の革新官僚の代表格であった岸と資本主義的財界人である小林は強く対立し、小林は岸をアカであると批判したりした。
  
 企画院事件で企画院の革新官僚ら数人が共産主義者として逮捕されると岸は辞職せざるをえなくなった。
 この時、岸は軍部と結託し、小林が軍事機密を漏洩したとして反撃の転じており、結果、小林も辞職した。

 終戦後は幣原内閣で国務大臣を務めたが、第二次近衛内閣で商工相だったことで公職追放となった。
 1951年(昭和26年)に追放解除となった後は東宝の社長になった。。


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posted by まねきねこ at 09:42| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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