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2012年06月09日

ラッキー・ルチアーノ(Charles "Lucky" Luciano) 米国マフィア史上最大の大物のひとり

チャールズ・ルチアーノ
     (Charles "Lucky" Luciano)
   1897年11月24日 - 1962年1月26日
 本名 サルヴァトーレ・ルカーニア  Salvatore Lucania
 米国におけるイタリア系犯罪組織
   コーサ・ノストラ(マフィア)
の最高幹部で、犯罪組織の改革者といわれる。
 米国における犯罪シンジケートの立案者・実力者でマフィア史上最大の大物といわれる人物のひとり。

    ラッキールチアーノ.jpg
 パレルモ(シチリア島 イタリア)近くの町レルカラ・フリッディ村で硫黄鉱山で働く労働者の父アントニオ、母ロザリオの次男として生まれた。
 シチリアでは朝から晩まで働いても食っていくのが精一杯の貧しい家庭であった。

 米国ではシチリアの年収が1日で稼げると聞き
   アメリカンドリーム
を夢見て、一旗揚げるべく新天地に求め両親と4人の兄妹とともに1906年11月にニューヨークに渡った。

 米国では、移民が欧州から大挙して押し寄せて金鉱や石油掘削などの作業員のほか多くの過酷な労働を担っており、労働力の供給過多が強まり賃金が増えなくなり、アントニオはまともな仕事にありつくこともできなかった。
 そのため、その日暮らしの日雇いの労働者となって家族を養っていくのが精一杯で極貧の生活環境はいつまでたっても良くはならない状況であった。

 一家に安定的な収入がなければ、ルチアーノもまともな教育を受けることも満足に食べることも適わないことで
   ロワー・イーストサイド
の悪夢のようなスラム街で、貧困の少年時代を過ごした。

 生活の周辺では持てる者から持たざる者が金品を奪って生活の糧を得るといった犯罪行為が頻発しており、力がモノをいう社会を身に染みて感じながら育った。
 このような弱いものが力の強いものの餌食になるような環境で育てば、ルチアーノが自然と犯罪の世界に足を踏み入れ
           (Five Points Gang)
に身を投じるのも時間の問題であった。
 最初に警察にお世話になったのは1907年に万引きで検挙されたときという。

 このギャング時代に後にシカゴのボスになるナポリ出身の
と出会っている。
 生涯通じて重要なパートナーとなる
とは、小遣い稼ぎでユダヤ人の用心棒をやっていた時に、ルチアーノがランスキーに
   アイルランドギャング
から守ってやるから、金を払いなと用心棒代を請求すると、小柄なランスキーは
   用心棒なんかいらねえよ
と言い放ち、ランスキーの体格差に屈しない度胸に驚き、このときから生涯通じての友人になったという。
 その後、ジョー・アドニスヴィト・ジェノヴェーゼフランク・コステロらのイタリア系犯罪者や、ベンジャミン・シーゲルダッチ・シュルツルイス・バカルターら他国系移民の犯罪者と親交も持つようになった。

 麻薬ビジネスや売春業などで儲け金回りがよくなると、世界屈指の一流ホテル
   ウォルドルフ=アストリア
の豪華なスイートルームに
   チャールズ・ローズ
といった偽名で住み、しゃれた格好をしたNYのプレイボーイとして常に美女軍団を連れてストーク・クラブで大盤振る舞いをするようになていった。

 1923年9月14日にニューヨークで行なわれたボクシングの試合
   ジャック・デンプシー
   ルイス・アンジェロ・フィルポ
の試合を見に行ったとき、会場でルチアーノが賄賂を贈っている政治家、裁判官、警察関係者たちは、ルチアーノを見かけると次から次と握手を求めてくるまで権力を手中に収めるようになっていた。

 1928年頃になると、世界恐慌の煽りを受けた経済を見たルチアーノは全米各地の犯罪組織と協力しないと互いに利権の確保のために総力戦を行い、角突き合わす消耗戦を続けることになり、今後は生き残っていけないとの考えを持った。
 このため、シカゴのアウトフットを引退していたジョニー・トーリオたちに呼びかけて
   ザ・セヴン・グループ
という、穏やかな同盟関係の組織を作った。
 翌1929年5月にニュージャージー州アトランティック・シティの
   プレジデント・ホテル
で全国から集まった若手ギャングスターと会議を開催した。
 この会議でファミリー間の地位は大きさに関係なく同等という、その後のコミッション制が考えられたという。

 少年時代より商才を発揮しイタリア人同士の対立にはできる限り関与せず
   友人達と中立の立場
を取ることに細心の注意を心がけていた成果が発揮されたという。
 1920年後半にカステランマレーゼ戦争と呼ばれ
の間の対立するが本格化したため、中立では両方から敵視される恐れが出てきたためどちらかに付かざるを得ない状況となった。

 最初マランツァーノがルチアーノを一家に誘ったものの、加入する条件として伝統としてシチリアの純血主義でもある
   沈黙の掟
を守らせるためマイヤー・ランスキーたちシチリア人でない人間や異教徒を組織からはずせという条件が付けられた。
 ルチアーノはこの条件を守れば、自らの組織の弱体化につながるため、この条件を受けることが出来ないと判断し、マッセリア一家と協定を結んだ。

 ルチアーノは協定は結んだもののマッセリアの手法が
   武力で相手を押さえつけること
は消耗戦を引き起こしかねず、組織の弱体化を招く恐れがあったため何のメリットもないと感じていた。
 また、敵対したシチリア人だけにこだわるマランツァーノの組織も狭い了見で時代遅れになったと思っており、旧時代のボスたちの時代を終わらせようと仲間を募り秘密裏に画策した。

 カステランマレーゼ戦争はルチアーノがついたマッセリアの勢力が当初は大きかった。
 その後、マランツァーノのマッセリア側の切り崩しを強めた。
 同郷シリア人に対しては裏切り話を持ちかけて徐々にマッセリアの勢力を削いで形勢が不利になっていった。

 ルチアーノもマッセリアの配下にいたときにマッセリアを裏切るように誘われたものの、この話にはルチアーノは乗らなかった。
 そのため、誘拐されマッセリアの手下から拷問を受け1929年10月17日、ニューヨークのステイトン・アイランドの路上に捨てられ、意識不明で倒れていた。
 すぐに病院に運ばれ緊急手術を受け奇跡的に助かったが顔に切り裂かれた傷を治療するため55針を縫ったという。
 この傷は一生残り右目蓋がたれてしまった。

 それでも命は助かったことから
   「ラッキー・ルチアーノ」
というニックネームが犯罪組織仲間らつき、チャーリー・ラッキーと呼ばれるようになった。
 ただ、ルチアーノは形成を呼んで最後にはマランツァーノ側に寝返り、信頼を得るため暗殺に加担した。

 1931年4月15日午後、ルチアーノはコニーアイランドの
   イタリアン・レストラン「スカルパート」
でマッセリアを食事に誘い、いつものとおり食後にはつきもののカードゲームを始めた。
 しばらくするとルチアーノがトイレに行くため席を立ったのを合図として、その間に4人の殺し屋が入って来てマッセリアを射殺した。

 なお事件後、警察の聴取でトイレの時間が長かったことを聞かれたルチアーノは
   「俺は一度始まると、なかなか終わらないたちでね」
と長小便の習慣があると言い、暗殺には関わっていないといって悪びれた様子はなかったという。

 1931年5月にニューヨークの大ボスとなった
   マランツァーノ
ジョゼフ・ボナンノらとシカゴで行われたギャングスターの会議に出席した。
 その後、「シチリア人だけの組織」に固執したマランツァーノは危険分子としてルチアーノ、アル・カポネ、ヴィト・ジェノヴェーゼ等を標的とする殺害者リストを作成した。

 ヴィンセント・"マッド・ドッグ"・コールに暗殺を依頼していた事を内部情報で知っており、先手を打ってルチアーノの意を受けた
     (ブロンクスとハーレムを牛耳っていたボス)
の側近ボー・ワインバーグ、サム・レヴィンら四人の殺し屋が警察官に変装してマランツァーノを事務所で暗殺した。
 なお、ルチアーノはそのその後48時間以内に全米に残った
   口ひげピート
      (Mustache Petes)
と呼ばれる旧時代のボスたちを殺すか強制的に引退させた。
 これがシチリアの晩鐘(Sicilian Vespers)といわれる事件である。

 ルチアーノは組織力に優れマランツァーノが考えたニューヨークの縄張りの
   五大ファミリー
への固定化実行し、他にも米国内各地のイタリア系犯罪組織の統合を目指した。
 また、犯罪集団にとって互いに争いをなくして
   目立たず潜在化すること
が組織全体の利益に繋がることを説いて、他国系移民の犯罪組織とも協力して
   犯罪シンジケート
の構築と運営の合議制化、制裁機関の設置などを考案し、それまで血縁関係や古いしきたりに従って動いていたコーサ・ノストラを米国経済の流儀に変革した近代的なビジネス組織へと作り変えていった。

 ルチアーノは勢力拡大のため、政治家とのつながりを強化し、ニューヨークの民主党代表のアルバート・マルティネッリと親交を持ち、1932年の選挙の際、民主党に多額の選挙資金を送った。
 この頃にはルチアーノの数多くの事業が年に20億ドルまで拡大していた。

 1936年、野心家である検事トーマス・デューイがルチアーノを
   公共の敵ナンバーワン
と名指しし厳しく追及した。

 このため、当時引退したギャングが集う街とも言われたアーカンソー州ホットスプリングスに身を隠したものの4月1日にカジノで遊んでいたところを逮捕された。
 裁判では容疑は殺人、酒の密造・密売、労働組合の恐喝、ミカジメの取立てなど数多くあった。
 しかし、ルチアーノが有罪になったのは彼が犯さなかった数少ない犯罪の一つ強制売春だった。

 他の犯罪は証人等が犯罪組織のメンバーでもあり、報復等を恐れ証言を拒否したりする恐れがあったため立件できなかったものである。
 なお、売春事件としては異例の禁固30〜50年の刑を宣告された。

 裁判では検察側が出頭させた証人の多くは、当局の指示に従わないと逮捕すると脅迫を受けた
   売春婦
たちで生活苦から脅しには屈しやすいためルチアーノに対して不利な証言行った。
 ただ、ルチアーノは「私は多くの不法行為に関与した」が「女に対し強制売春だけはさせていない」と無実を主張したものの、その後10年近く刑務所で暮らすことになった。 

 ギャングが監視体制の厳しさからシベリアと恐れていた
   ダンネモーラ刑務所
     (Clinton Correctional Facility, Dannemora)
に送られた。
 ただ、ルチアーノは面会に来たマイヤー・ランスキーやフランク・コステロたちを使い、刑務所内から組織犯罪の指揮をとり続けたという。

 服役中には第二次世界大戦勃発により米国の東海岸一帯、特にニューヨークの港はドイツによる
   Uボートの攻撃
やドイツスパイ網の作戦で諸々の破壊活動を受けるようになった。
 当時、ニューヨークの港でフルトンフィッシュマーケット(Fulton Fish Market)のような場所は前科持ちなどが紛れ込むのに都合がよく、尚且つルチアーノのマフィア組織の支配下となっており警察や軍の関係者では警戒され目的とする成果があげられなかった。

 このため
   埠頭や繁華街での諜報活動
にアメリカ海軍はマフィア組織との協力が必要となり通称「暗黒街計画」が始まることとなった。
 なお、ルチアーノ自身はドイツの陰謀を利用して市民の不安を煽れば刑務所から刑期を短縮して出られると考え、アメリカ海軍に協力して波止場でのスパイ監視活動やシチリア上陸作戦の情報提供を指示したと見られる。

 1941年においては海軍情報部のため活動していたニューヨーク地方検事の
   フランク・ホーガン
は敵国情報の収集や軍事作戦での協力を頼んだ。

 この求めに応じたルチアーノはまずダンネモーラ刑務所からニューヨークに近いグリーンヘヴン刑務所へ移してもらったう条件をつけ、成果を確認した上で協力と取引を拡大していった。

 連合軍がシチリア島へ進行したときは
   ジョー・ランザ
     (Joseph A. "Socks" Lanza)
からの推薦もあり、チャールズ・ハッフェンデン(Charles Haffenden)海軍少佐が刑務所にいるルチアーノに協力を要請した。
 ルチアーノは刑期を短縮させる努力をするという交換条件をつけている。

 ルチアーノはシチリア島のマフィアとのコンタクトがないため、年長者でコンタクトを持っている
   ジョセフ・プロファチ
らにも協力を依頼し、シシリー・マフィアの大ボスである
   カロジェロ・ヴィッツィーニ
の協力を得る手筈を整え、難なくシシリア島への上陸作戦を敢行する事が出来た。
 なお、独裁者でもあるベニート・ムッソリーニはマフィアを弾圧していたので、彼らの利害関係が一致したことが影響した。

 ドイツが降伏しヨーロッパ戦線が終結した直後の1945年5月7日に
   恩赦を求める嘆願書
をニューヨーク州知事となったトーマス・E・デューイに提出した。

 米国政府は大戦中の功績を認め恩赦を許可した。
 しかし、ルチアーノはアメリカ市民権を持たないので恩赦を受けながら、イタリアへ強制送還された。

 イタリアの生まれ故郷のレルカラ・フリッディに帰るが、田舎の環境が気に入らずナポリで生活しスカラ座のバレリーナの
   イゲア・リッソーニ
を愛人にし、彼女と共に競馬場や高級レストランに毎日のように通い優雅な生活を送っている。
 なお、表稼業では医療器具や家庭電化製品を扱う商人で裏は麻薬や煙草の密輸をやっていた。

 米国からの追放後も、レバノンの密輸業者と結託してトルコで生産されている非合法アヘンをレバノンでモルヒネに加工したうえでトロール船でイタリア沿岸部、または、フランスのマルセイユに運びヘロインに精製させるルートを作った。
 20世紀初頭における北半球における最大の組織暴力組織に成長していた
   コルシカギャング
はフランス領シナで栽培していた麻薬に関しては地中海で幅を利かせていた。 

 米国本土とのコネクションを持っているルチアーノは米軍の展開に呼吸を合わせるがのごとくイタリアとアメリカの間に麻薬密輸ルートを築き上げ、マフィアの勢力を拡大させていった。 

 ルチアーノはシシリアン・マフィアとナポリのカモッラとの仲をとりもったりするなど、常にイタリアとアメリカの犯罪組織に大きな影響を与え続けた。
 しかし、報酬10万ドルと配給収入の一部を受け取る契約として自伝映画製作者を出迎えるため1962年1月16日にナポリ空港に出向いたとき
   空港で心臓発作
を起こし死亡、本人が望んていた生きてアメリカの土を踏むことはなかった。
 晩年にはかつての盟友ヴィト・ジェノヴェーゼから刺客を送られたともいわれている。
 なお、マイヤー・ランスキーはルチアーノが事実上オメルタを破ることに激怒し、組織の実態が白昼も下に明らかになる映画製作に反対していたため、ルチアーノの死は
   暗殺の疑い
もあるとも言われている。


   
posted by まねきねこ at 08:00| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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