マイヤー・ランスキー
(Meyer Lansky)
1902年7月4日 - 1983年1月15日
本 名 マイェル・スホフラニスキ
(Majer Suchowlański)
ユダヤ系ロシア人のギャングで米国内で犯罪帝国を率いた。
幼い頃からの友人である
ラッキー・ルチアーノ
の右腕としてルチアーノ帝国の財政顧問及び
全米犯罪シンジケート(NCS)委員会会長
として活躍した。
ランスキーはコインの表にも当る
「合法的」組織犯罪
を目指す思惑に沿ってこのNCSを設立した。
フランクリン・ルーズベルトが世界恐慌の影響で破綻した米国経済を回復させる目的として設置した
ニュー・ディール推進機関
として、全米の公共事業の監督に当たった
全米復興庁(NRA)
を模倣した組織とも言われている。
なお、コーザノストラ組織間の調整役に徹することが多かったため
バックボーン
としてポジションで地味な存在に見える。
しかし、長年にわたってマフィアの重鎮として君臨した大物中の大物と考えられる。
ただ、イタリア系ではないため単に金を賄える便利な男であったため、組織として重宝し活用していただけで、用無しになれば処分される可能性は常にあった様でもある。
ランスキーはロシア帝国領だった
グロドノ(現・ベラルーシ)で
ポーランド系ユダヤ人の両親の間に生まれた。
1911年、家族とともにアメリカに移住してニューヨークに定住し少年時代に
ファイブ・ポインツ・ギャング
(Five Points Gang)
に身を投じていたラッキー・ルチアーノと出会った。
当時ユダヤ人の用心棒をやっていたルチアーノが、小柄だったランスキーに目を付けて自分を雇わせようとしたのが発端と言われる。
ただ、ルチアーノはランスキーが体格で大きく上回る自分に対しても
用心棒など要らない
と突っぱねた断固とした態度に驚いたと言う。
また、ルチアーノはこの頃に後にシカゴのボスになる
と出会って面識があり、カポネがシカゴへ行くときには餞別も渡した。
ランスキーはルチアーノとこの後、無二の親友となりルチアーノ帝国の発展を支えるため資金面のサポートを行うようになった。
また、1920年には
ベンジャミン・シーゲル
("Bugsy" Siegel)
とも親交を持っている。
1919年にはワールドシリーズで八百長を画策(ブラックソックス事件)したことで知られる
の弟分としてロススタインが1928年11月3日にギャンブルの掛け金の支払いを巡るいざこざで射殺され、残された犯罪組織を継いでいる。
禁酒法時代にはカナダの
とニューヨークを結ぶ仲介人の役割を果たしていた。
1931年にはルチアーノのコーサ・ノストラ支配に協力し、同じくユダヤ系の大物ギャング
ルイス・バカルター
や弟分のシーゲルと共に
マーダー・インク
(殺人株式会社)
と呼ばれる組織を設立し暗黒街のおける暗殺ビジネスを請け負った。
1930年代には毎年8月に競馬が開催される
サラトガスプリング
にルチアーノ、フランク・コステロらギャング・ファミリーと出向いた。
ユダヤ人でもあるランスキーは
非常に頭の切れるギャング
として知られ教養もありものの見方が幅広かった。
カジノ経営についても学んだようだ。
また、賭博についても独自のプランを持っていたという。
1936年までにはフロリダ、ニューオリンズにカジノを作った。
さらに賭博場開設の許可を取るためキューバの独裁者の
フルヘンシオ・バティスタ
に300万ドルさらに毎年300万ドルを支払う取引をして1930年代後半にはキューバにもカジノを展開させギャンブル事業で成功した。
他にも競馬場、私設馬券場、競馬通信社を乗っ取り、掛け率をコントロールして莫大な利益を稼いでいた。
フランク・コステロとランスキーは1938年に
25万ドルの秘密基金
を作り、ニューヨーク州知事を得ようとしていた
トーマス・E・デューイ
を支持、選挙資金を提供した。
なお、デューイは1930年代にNY市の検察官を務め1935年にNY州知事から
特別検察官
に任命され組織犯罪撲滅に乗り出しており1936年にはデューイが公共の敵ナンバー1と呼んでいたラッキー・ルチアーノ裁判の有罪宣告を支援するなど捜査では大きな成果を挙げた。
ただ、1938年の選挙には敗れ、それからは2度と彼らの脅威にならなかったという。
シーゲルがネバダ州小規模なカジノしかなかったラスベガスに
壮大なホテル フラミンゴ
建設の話を持ちかけてきたものの、他のボスたちに資金集めを頼むが断られている。
はじめに興味を持ったのは、当時
スロット・マシン王
と呼ばれていたコステロぐらいだった。
フラミンゴの建設費は600万ドルで当初の予算より500万ドルオーバーしキューバでの
バハマ会議
のとき議題がベンジャミン・シーゲルのことになったとき
フラミンゴの再オープン
まで待ってやってくれとかばった。
ただ、友人シーゲルのラスベガス進出失敗を擁護したが、シーゲルの愛人の
ヴァージニア・ヒル
に浪費癖があり、多額の現金をヴァージニアがかすめ取ってヨーロッパに逃亡した。
シーゲルはボスたちの目障りとなり1947年6月20日夜、ビバリーヒルズ(カリフォルニア州)のヒルの邸宅で一人ソファに座り新聞を読んでいるところをヒットマンの
エディ・カニッツァーロ
にM1カービン銃で顔などを銃撃されて殺された。
キューバでは1959年1月に独裁者バティスタを追放したフィデル・カストロが政権を奪取しカジノが閉鎖されたとき1700万ドルを損したという。
こうした失敗から政治の不安定な海外よりアメリカ国内で
合法的な賭博場
を作ったほうが良いと考えてマフィアのラスベガス進出を積極化させた。
さらにランスキーたちマフィアの幹部たちは、マフィアがキューバから追い出されると
カストロを消した者
には100万ドルの賞金を出すとの宣伝を行った。
CIAなどへの協力も第2次世界対戦中のNY市埠頭や繁華街での諜報活動にアメリカ海軍がマフィア組織との協力がおこなわれており
通称「暗黒街計画」
で、ムッソリーニ支配下にあったシチリアへの受理く作戦などでも協力関係を継続させいた。
第二次世界大戦直後には、ユダヤ人国家である
イスラエル建国
のため、ユダヤ人地下組織に多数の武器を提供した。
イスラエルの独立を餌にして政治機構を「買収」し、そこを自分の「合法的」組織犯罪帝国の世界本部とすることが最終的な目的でもあったと言われている。
ユダヤ人国際結社「ブナイ・ブリス」から豊かな財政支援を受けて生まれた米国最大のユダヤ人団体
名誉毀損防止同盟
(Anti-Defamation League 略称ADL)
は組織犯罪におけるユダヤ組織のための最初の防衛機関とも見られている。
米国の警察や一部新聞が、勢力を拡大する全米犯罪シンジケート中における
ユダヤ・ギャングの役割
を解明しようとでもすれば、ADLはこれを反ユダヤ主義者として攻撃した。
娯楽の街として全米からの観光客等を誘致するためラスベガス地区においてギャング同士が抗争を起こさないように取り持つ仲裁役になっていた。
そのためラスベガスでは彼の言葉がそのまま法律になったと言う。
麻薬ビジネスをダーティーな仕事とランスキーは考えており映画「ゴッドファーザー」のドン・コルレオーネのモデルとしても知られる
ヴィト・ジェノヴェーゼ
が麻薬密輸を積極的に行なっていたとき、コステロと共に麻薬ビジネスには当初は反対した。
1960年代においては麻薬密輸、売春業、恐喝、ホテル・ゴルフコースへの
投資によって3億ドルを儲けた
と言われる。
なお、1970年に脱税容疑を受けて
イスラエルに逃亡
したが、2年後にイスラエルから国外追放されてアメリカに強制送還された。
ランスキーの組織犯罪における立場は不明な部分が多いがギャングには珍しく数字に強く、経済学の研究書を読み、経済感覚が秀でていたという。
犯罪で得た資金を正規ルートに戻すマネーロンダリングの創始者とも言われている。
1983年1月15日、ランスキーは4億ドル以上の財産を残して肺癌で他界している。