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2012年05月03日

ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(Nathan Mayer Rothschild)ドイツ出身のイギリスの銀行家

ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(Nathan Mayer Rothschild)
   1777年9月16日 - 1836年7月28日
 ドイツ出身のイギリスの銀行家
 イギリスにおけるロスチャイルド財閥の始祖
 ロスチャイルド家の創始者
の三男としてフランクフルト・アム・マインに生まれた。
 ドイツ語読みではナータン・マイアー・ロートシルト。
 1798年、英国のマンチェスターに21歳のとき移住し、織物貿易と金融業で成功した。
 その後、ロンドンへ移り、為替手形貿易で身代を築いた。
 1816年、兄のアムシェル・マイアーザーロモン・マイアーがオーストリア皇帝から男爵の位を授けられ、貴族の称号であるvon(フォン)やde(ド)を名乗ることを許されている。
 ネイサンは1818年に叙爵されたが、英国における事業の拡大には
   聞きなれない貴族の称号
が足を引っ張ることを懸念し称号を名乗ることを、彼自身は嫌っていたとも言われている。
 ネイサンの事業における最も有名な逸話が
   ネイサンの逆売り
といわれるものである。
 意図的に金融市場でパニックを引き起こし安価に株や債券等を大量に買い求める手法で投資家を手玉に取る手法を進めた。
 欧州におけるフランス革命の後の混沌とした社会で軍事力によりフランスの治安を安定化させた
   皇帝ナポレオン
が領土と権益の確保のために周辺国に軍事行動を起こしており、当時ロンドンの株式市場が大きく注目していたのが、その戦況であった。
 ナポレオンの勝利によるフランスの躍進は、同時に
   産業と金融経済
の中心を英国が奪われる事を意味しており、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍による1815年の
   ワーテルローの戦い
の勝敗が焦点であり、勝てば売り、負ければ買いと言われていた。
 独自の情報網でナポレオン敗北の報をいち早く入手したネイサンは、投資セオリーと
   逆張りを仕掛け
て猛烈な売りに出た。
 ネイサンが欧州全域に張り巡らした情報網を知る金融市場はネイサンの動きから
   ナポレオンが勝利した
と判断し即座に反応して、売りが集中して株価は暴落した。
 ネイサンはダミー等を駆使しながら底値に近づく過程で買い戻しを強めて多くの国債、公債、手形、証券等を紙屑同然の値段で取得していったも言われている。
 当日の午後に証券取引所が閉まった時点では、実に取引所に上場されている
   全国債や株のうち62%
を取得していたという。
 その後、ナポレオン敗北が報じられて金融商品が急上昇した事により
   300万ドル
だった自己資産は
   75億ドル
に巨額の利益(2500倍)を得て英国企業や
   国家財政
を牛耳る不動の地位を確保したと言われている。
 なお、同日は、イギリスの名門の多くが破産し権力を喪失してしまった。
 1808年から1814年にかけてのスペイン独立戦争(半島戦争)では
   ロスチャイルド家
の国際的な商業ネットワークを利用して、イベリア半島出征中の
   大英帝国軍
に軍資金を送った。
 また、1818年には、プロイセン政府に
   500万ポンドを融通
して債券を発行させ、自らの事業の礎を築いた。
 1825年から1826年にかけて、流動性危機を回避するために
   英国銀行へ充分な貨幣
を供給し、ロンドンの金融街の大立者となった。
 ロンドンで彼が設立した投資銀行
は、今日なお存続して投資活動を続けている。
 1836年に感染性膿瘍で没した
 ネイサンの事業は、息子ライオネル・ネイサン・ロスチャイルドが引き継いだ。
 ロンドンのロスチャイルド家は、ネーサン死後も、ディズレイリ内閣による
   スエズ運河株式
の買収(1875年)に400万ポンドを融資し、英国政府にスエズ運河買収の資金を提供したり、第1次世界大戦の際には莫大な戦費調達と引き換えにユダヤ人国家の建国を約束させている。
  

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posted by まねきねこ at 16:29| 愛知 ☁| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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