Edwin Laurentine Drake
(1819年3月29−1880年11月9日)
ドレイク大佐として知られるアメリカの
石油掘削業者の先駆者
として知られる。
グリーンカウンティー(ニューヨーク州)で
ライマン・ドレイク
ローラ(旧姓リー)
の息子として生まれ家族経営の農場で育った。
13歳の時に家を出てニューヘブン(コネチカット州)周辺で
鉄道関係の仕事
に就いた。
鉄道員となって3年後、鉄道を利用した
無料の旅行
を含め、汽車車掌の権限を持つまでになっていた。
当時、石油というものは世間に既に知られていたがそれを
消費するための市場
がなかった。
原油100ドル時代の成長戦略海外資源の権益確保や戦略備蓄など資源戦略に邁進する中国。対する日本。原油価格上昇は、本当に危機なのか。世界に先駆けて、資源浪費型の産業構造を新エネルギー型に転換できるなら―それは、再成長の最大のチャンスとなる!日本生き残りの提言を説いた一冊。 |
サミュエル・マーティン・キアーが石油を
ランプの油
として精製する施設をピッツバーグに設立した。
この工場では原油から精製したランプオイルを販売するようになった。
なお、これ以前においては鯨油をオイルランプとして利用するために捕鯨船を太平洋に出しており、その補給基地を求めてペリーが日本に対し開国を求めたともいわれている。
・ 日本1852 ペリー遠征計画の基礎資料
・ 人生に悩んだら「日本史」に聞こう 幸せの種は歴史の中にある
ペンシルベニア州では
ペンシルベニアロック石油
Pennsylvania Rock Oil Company
がジョージビッセルとジョナサンイレブンスにより設立された。
当時、ビッセルは、地中から安価に
原油を抽出する方法
を考案することができれば
石油は実用的な代替
となると思っていたが、その方法が思いつかなかった。
その後、ロック石油の株主との間に
利害の不一致
を原因として、会社が分割され、1858年に
セネカ石油
が設立された。
・ 資源を読む
・ 食糧争奪―日本の食が世界から取り残される日
目先の効く努力家のドレイクはビッセルとイレブンスで仕事を提供される前にセネカオイルの株式を購入していた。
たまたま、両当事者は、タイタスビル(ペンシルベニア州)で同じホテルに滞在して知り合いとなりドレイクは原油掘削の仕事の機会が生まれた。
ドレイクはタイタスビル(ペンシルバニア州)にあるセネカ石油の所有地で原油の埋蔵の可能性のある地点の調査をするために同社に
年俸 1,000ドル
の給与で雇われた。
ジェームズタウンゼント社長(セネカ石油)は、1858年に石油掘削現場にドレイクを監督者として差し向けた。
ドレイク監督は
鋳鉄管は10フィート長(3.0 m)の接合
を繰り返しながら
ドライブパイプを伸ばしていく方法
を考案してドリルダウン方式で掘削することを決めた。
一般的に行われていた蒸気機関を利用したドリルで砂利の層を掘削し
オイルクリーク
から原油を取得するための作業には時間がかかった。
しかし、16フィートで、穴の側面が崩壊し始めていた。
なお、地面にボアホール崩壊を防ぐために配管を使用して掘削する方法を考案し作業を続行させたことが今日の石油採掘の元となっている。
ただ、作業時間が長くセネカ石油は資金の投入を断念したためドレイクは、友人に頼り作業を継続し8月27日にドリルビットが
69.5フィート(21メートル)の深さ
に達していた。
翌朝ドレイクのドリラー
ビリースミス
が、別の日の仕事の準備のための穴を見に行ったところ原油が自然に染み出し上昇していた。
ドレイクが呼ばれ、この原油を手押しポンプを使用して出てきたオイルをバスタブに回収した。
なお、当時の原油採取では油の含有した場所においては
油の浸透
や地面に掘った浅い穴から
自然に湧き
出た原油を収集する事業が行われ、機械的に穴を掘って吸い上げる方式は取られていなかった。
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