Анато́лий Бори́сович Чуба́йс
Anatoly Borisovich Chubais
( 1955年6月16日 - )
白ロシア共和国(現在のベラルーシ)に生まれ、父親は軍人、母方はユダヤ系
1977年レニングラード技術経済大学を卒業、1990年からレニングラード市執行委員会副議長、第一副議長、サンクトペテルブルク市長主席顧問を歴任した。
エリツィン大統領時代に大統領府長官、第一副首相兼蔵相を歴任し民営化政策を推進し、エリツィン時代後期にはボリス・ベレゾフスキー、ロマン・アブラモビッチらと共にロシアの政財界に強大な影響力を及ぼした。
エリツィン政権末期からプーチン時代にかけては政権内からは離れ新興財閥(オリガルヒ)
統一エネルギーシステム(UES)
の会長として一定の地歩を占めロシアナノテクノロジー社(ロスナノテク)社長となった。
1992年6月にロシア連邦政府、民営化担当副首相に就任。エゴール・ガイダル首相代行と共に急進的市場経済改革を実施した。
ガイダル、チュバイスたちが実施した経済改革は、脆弱なロシア経済に
ハイパーインフレーション
をもたらし、民営化を実施するにあたり、国営企業の経営者をそのまま、民営化した企業の経営者=所有者にした。
チュバイスの民営化は、大変不平等な結果をもたらし、後に政界を操るようになるオリガルヒと呼ばれる新興財閥と寡頭資本家が生まれ、貧富の差が増大した。
1996年の大統領選挙において、エリツィン陣営の選挙対策本部の責任者に就任し、ベレゾフスキーや他の新興財閥と協力し、エリツィンを再選に導いた。
この再選の功労により、1996年7月より大統領府長官に就任しエリツィン政権の「摂政」の異名をとった。
1997年11月解任。その後、UES会長に就任している。
1998年8月、ガイダルと共に、セルゲイ・キリエンコ首相にルーブルの切り下げを迫った。
首相は、その勧告に従ったが、これが引き金となりロシア金融危機が発生した。
エリツィン時代においてエリツィン・ファミリーの一員として、ロシアの政財界に強い影響力を誇ったが、プーチン大統領が就任し、状況は一変している。
プーチンと「シロヴィキ」の新興財閥抑圧策により他の新興財閥同様、政治的影響力が衰えた。
一方ではプーチンを強権政治と批判を強めた。
2005年3月17日モスクワ近郊でチュバイスが乗った車が銃撃された。
2005年5月に発生した大停電に関し、プーチン大統領は同社の経営方法、経営陣に欠陥があることにより発生したと非難した。
ただ、他の新興財閥が投獄や訴追、懐柔によって政界への影響力を喪失するなか、唯一反プーチン路線を声高に叫んでいる新興財閥の長でもある。
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