ウィリアム・ランドルフ・ハースト
(William Randolph Hearst)
1863年4月29日 - 1951年8月14日
サンフランシスコ生まれのアメリカの新聞発行人
アメリカの メディア関連の複合企業
ハースト・コーポレーション
の創業者
炭坑のオーナーでカリフォルニア州の上院議員だった父親のジョージとミズーリ州の学校の教師であった母親フィービーを両親にもつ。 ハーバード大学に在学したものの学位を取らずに退学後、1887年に、父親が賭博の担保として入手した
サンフランシスコ・エグザミナー
を譲り受け、同紙を
ザ・モナーク・オブ・ザ・デイリーズ
という愛称にしてメディア業界に進出した。
ニューヨーク・モーニング・ジャーナル紙を1895年に購入し、ニューヨーク・ワールド紙の所有者
ジョーゼフ・ピューリツァー
との発行競争を始めた。
購読者数を増加させるために両紙は、イエロー・ジャーナリズムのスタイルで
キューバの暴動に関する記事
を読者感情を煽るよう露骨に誇張した内容とし、スペイン軍がキューバ人を強制収容所に入れ、彼らが疾病と飢えで苦しみ死んだと発表、ハーストが自社の新聞の売り上げを伸ばすために1898年の米西戦争を誇大に報じた。
ピーク時にはいくつかのラジオ放送局および映画会社に加えて、28の主な新聞および18の雑誌を所有した。
世界恐慌により財務状態を弱め1940年までに経営の主導権を失った。
1903年にショーガール
ミリセント・ヴェロニカ・ウィルソン(1882 - 1974)
と結婚、5人の息子をもうけた。
ジョージ・ランドルフ(1904 - 1972)、ウィリアム・ランドルフ・ジュニア(1908 - 1993)、ジョン・ランドルフ(1910 - 1958)、および双子のランドルフ・アパーソン(1915 - 2000)およびデービッド・ウィットマイアー(1915 - 1986)がいる。
なお、ハーストが1926年に妻と別居後に同棲し生涯を共にしたのは、元女優の
マリオン・デイビス
(マリオン・セシリア・ダグラス、1897 - 1961)
で、マリオンの容姿と性格を気に入ったハーストはパトロンに納まり、わざわざ映画制作会社(コスモポリタン社)まで設立、強引に彼女を映画女優に仕立て上げデビューさせたうえ、自分が発行する新聞社の記事で彼女を大々的に宣伝したが女優の才能がなく結局大スターにもなれずに1937年に引退した。