山尾 庸三(やまお ようぞう)
天保8年10月8日(1837年11月5日)
- 大正6年(1917年)12月21日
周防国吉敷郡二島村(現・山口県山口市秋穂二島)出身で、長州藩士山尾忠治郎の次男として生まれた。
幕末〜明治時代の人物で子爵
幕末〜明治時代の人物で子爵
江戸で航海術を学ぶ。
文久2年(1862年)、江戸幕府老中安藤信正の命で、国学者の
塙忠宝
が前田夏蔭と共に寛永以前の幕府による
外国人待遇の式典
について調査しており、これが孝明帝を廃位するために「廃帝の典故」について調査しているといった誤った巷説が伝えられ、勤皇浪士たちを刺激した。
勤王浪士の伊藤博文とふたりで塙忠宝を暗殺した。
文久3年(1863年)、密航でロンドン・グラスゴーに、伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共に留学し、長州五傑と呼ばれさまざまな工学を学んだ。
明治元年(1868年)に帰国した。
帰国後に工部権大丞・工部少輔、大輔、工部卿など工学関連の重職を任された。新たに創設された法制局の初代長官も務めている。
また、のちの東京大学工学部の前身となる工学寮を創立したうえ、聾を患う身体障害者の人材教育に熱心に取り組み、明治13年(1880年)に楽善会訓盲院を設立した。