当ブログ内の情報はあくまでも参考情報です。投資にあたっての判断は投資する人の自己責任でお願いします。
当ブログでは、一切の責任を負いませんでご了承下さい。

マーケット出来事貴金属とレアメタル宝石と宝飾品貴金属の取引方法貴金属取扱会社

2011年01月24日

ウィリアム・ジャーディン

ウィリアム・ジャーディン
   William Jardine
      (1784年-1843年)
 英国の国策会社である
   イギリス東インド会社
の外科船医として、中国のアヘン貿易にも携わった。
 財を蓄えて豪商となり第一次アヘン戦争の開始には暗躍した。→ ranking
 
 ジェームス・マセソンと中国の広州(沙面島)に1832年
   ジャーディン・マセソン
を設立した。
 日本では、1859年(安政6年)にイギリス人
   ウィリアム・ケスウィック
     (ウィリアム・ジャーディンの姉の子)
がジャーディン・マセソン商会横浜支店を設立し、地元住民からは
   英一番館
と呼ばれた。
 なお、1868年に帰国した吉田健三(吉田茂の養父)が同商会横浜支店(英一番館)の支店長に就任している。
 
 スコットランドのダンフリースシャー市Lochmaben近郊の農場で生まれた。
 兄デヴィッドが学費を負担し、外科医の住み込み見習いになって臨床経験を身に付け、1800年にエジンバラ大学医学部に進学し、解剖学・臨床学・産科学を専攻した。
 
 1802年3月2日に卒業し、エジンバラ王立外科学カレッジから学位を取得した。
 同年18歳でイギリス東インド会社に就職した。
 3月15日、二か月分の給与の前払を受け、東インド会社の海事船舶サービス部門の外科船医として東インド商船
   ブランズウィック号
に乗船した。 
 
 東インド会社では従業員に
   個人貿易の内職
が許され、各乗組員はたんす二つ分の空間もしくは積載量約百ポンド(約45kg)分を割り当てられた。
 
 ウィリアムは抜け目無く、割り当てに関心がない他の船員の空間も借り受け蓄財に励んだ。

 1817年に退職後、ボンベイ(現ムンバイ)のCowasjee, Weeding and Jardine社の貿易業務担当を振り出しに、1823年に清国広州に事業所を置く最古のイギリス企業
   Charles Magniac and Co.
のジュニアパートナーになるまで複数の貿易商を掛け持ちし豪商の道を進んだ。
 
 フランス船がブランズウィック号に強引に接舷したとき同乗していた
   Jamsetjee Jeejebhoy
は生涯の友になった。
  
 ジャーディン・マセソン社は1841年において
   大陸間航行用大型快速帆船
を19隻所有していたが、ライバル会社でこれに次ぐ数を所有するのは13隻の
   デント社(Dent and Company)
だった。
 
 ジャーディン・マセソン社はその他に数百の小型船・ロルシャと沿岸部と河川遡上用の小型の密輸艇も所有し、インドから清へのアヘンの密輸、フィリピンとの砂糖と香辛料の貿易、清の茶と絹のイングランドへの輸入、船積書類と積荷保険の取り扱い、造船所設備と倉庫の賃貸、貿易金融、その他貿易に関するあらゆる業務を取り扱った。
 
 清国は1830年代中頃になり麻薬貿易の代償に
   銀が大量に流出すること
ことを防ぐため中国当局が締め付けを強化したためアヘン貿易が次第に困難になった。
 この貿易不均衡は、西欧の貿易会社が取り扱う
   清国産の茶や絹の輸出額
よりも
   アヘンの輸入額が不当に高かった
ことを意味している。
 
  実録アヘン戦争 (中公文庫) [文庫] / 陳 舜臣 (著); 中央公論新社 (刊)
 ジャーディンは清でのアヘン取引の拡大を望み、対清貿易で強硬姿勢を取るよう英国政府を説得するため
   ジェームス・マセソン
をイギリスに送った。
 しかし、「鉄の公爵」とも呼ばれた外務大臣ウェリントン公に門前払いを食わされたことを
   傲慢で愚かな男に辱めを受けた
とジャーディンにその後報告している。
 
 その後、清国政府は、ジャーディンの2度目の出国を聞いて早速アヘン貿易の停止に踏み切った。
 林則徐は、広州の麻薬取締を命じられ、すべてのアヘンの没収を指示した。
 その数は広州で2万ケース以上になった。
 またアヘン犯罪の頭目としてデント会社の経営者
    ランスロット・デント
の逮捕を命じ、清への麻薬密輸について釈明を求める書簡をヴィクトリア女王宛に送付した。
 
 1840年にはアジアとイギリスでイギリス人貿易商と実業家数百人の署名を集め
    ジャーディン・ペーパー
と呼ばれる戦争の詳細な計画書を提出、これを武器にジャーディンは議会を説得し対清戦争の予算獲得に成功した。
 
 ジャーディン・ペーパーには戦略と戦術の詳細、清国の政治的要求の内容、必要な兵員、戦艦数などが網羅されていた。
 
 英国の大艦隊が1840年代中頃、清の海岸地帯に出現し英国艦
     ロイヤルサクソン
を狙った最初の砲撃を合図にイギリスはアヘン戦争に突入した。
 イギリス戦艦は海岸の砲台や要塞を次々破壊し、激しい艦砲射撃で市街地を無差別攻撃し、さらに北上して北京の紫禁城に攻撃を仕掛けた。
 清国政府はイギリスの前に降伏を余儀なくされた。
  
 1843年、清英両国の当局代表者により南京条約が締結され、清の5大港の開港、清国在留外国人の治外法権、破棄されたアヘンの賠償が認められた。
 1841年1月26日以来貿易と軍事の拠点として事実上占拠されてきた香港島の公式割譲が完了した。
 
 これらにより清国内で依然として非合法だったアヘンをはじめとして清国との貿易は拡大した。
   
 
  
   ↓ 参考になったらクリックお願いします。
  人気ブログランキングへ
   
  
    
posted by まねきねこ at 03:00| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: