片山 宗哲
天正元年(1573年) - 元和8年(1622年
戦国時代末期から江戸時代前期の医師
山城国の片山俊実の子で医家・片山宗仙の婿となり家督を継いだ。
侍医となったのち法印の称号をあたえ与安法印とも呼ばれた。
徳川家に仕えたものの直言がすぎて一時職を追われ信濃・高島に配流となった。
徳川秀忠によびもどされ幕府につかえた。
一鴎宗虎に医学を学び
豊臣秀吉
に召されたが、仕官を拒否した。
その後、宗虎の推挙で徳川家康に仕えている。
関ヶ原の戦いのとき家康が寒疾になったのを一晩で治したと伝わる。
また、徳川家光が劇疾をわずらったのも治療している。
家康の末期にも診察をし、家康が自ら作った
万病丹 など
の飲みすぎについて、「大毒の薬でもって治癒しようとすれば、かえって病状が悪化する」と忠言したため、機嫌を損ね宗哲の本領は安堵したまま配流された。
家康が日常的に自身で調合した薬を服用しており、特に万病丹の服用のしすぎを宗哲が直言したため家康の怒りに触れた。
なお、家康はその直後の4月17日に病死している。
徳川家中の者は宗哲の診断が正しいと認識していたとされ、2年後の元和4年(1618年)4月に徳川秀忠によって呼び戻され、江戸幕府に仕えた。
また、秀忠の息子・徳川家光の劇疾の治療にあたるなど活躍し、元和8年(1622年)にこの世を去った。
徳川家康が宗哲を流刑にしたことを聞いた細川忠興は息子の細川忠利に3月28日、驚きを隠せないと書状を出している。
なお、忠興も医学に通じた人物であり、宗哲の流刑は予想外だったと感じたとされている。