アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)
1889年4月20日 - 1945年4月30日
ドイツの第三帝国の政治家 オーストリア出身
国家社会主義ドイツ労働者党党首(通称ナチス)として優性的に
アーリア民族
を上位に据えた民族主義と反ユダヤ主義を掲げ、1933年に首相となりナチ党の権力掌握によって「憲法変更的立法」である
全権委任法
が成立した。
ワイマール憲法において選ばれた1934年にヒンデンブルク大統領死去に伴い、国家元首となった。
第一次世界大戦の敗北で
莫大な負債
を要求され貧困の縁に追い込まれた。
債務の支払いを一方的に停止しドイツ経済の回復を目論み、産業育成並びに軍事力によるドイツ領土拡張を進めるなど軍産複合体制を追及した。
1939年のポーランド侵攻によって第二次世界大戦を引き起こした。
テロ行為等武力的な手法ではなく合法的な選挙によりナチス党の勢力を拡大した。
のちに指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制を築き、独裁者の道を歩んだ。
オーストリアとドイツとの国境近くにあったブラウナウで税関吏
アロイス・ヒトラー
とその3番目の妻クララ・ペルツルの子として生まれた。
姓の「ヒトラー」は、1876年に農夫
ヨハン・ネムポク・ヒードラー
が母マリア・シックルグルーバーがアロイスを産んだのち、認知した際にシックルグルーバー姓から変更されたもの。
ドイツ人では珍しい姓であるが、チェコ人に多く見られるという。
父親のアロイスは非常に厳格で、自分の
教育方針に違反した行為
をすると、情け容赦なく子供たちに鞭を振るったという。
特に、長子アロイス2世が14歳で家出をした後は、次男のアドルフに非常な期待を込め、厳しく躾けた。
少年時代のヒトラーは、成績不良で2回の留年と転校を経験している。
リンツの実業学校の担任のヒトラーに対する所見では
非凡な才能
を持っているものの直感に頼り、努力が足りないと評されていた。
得意教科(歴史、美術など)は熱心に取り組むが、苦手教科(数学、フランス語)は徹底して怠ける性質だったという。
ヒトラーは1905年に中等教育(高校)を途中で放棄してウィーンで気侭に暮らしており、働く事もなく母からの孤児年金の仕送りで生活していたという。
1907年頃から
画 家
を目指し始め、ウィーン美術アカデミーを2年浪人して受験した。
中等教育修了を必要としない美術アカデミーは、実業学校を退校したヒトラーでも受験が可能だった。
ただ、肝心の試験結果は不合格で画風については丹念な描写に情熱を注ぐものの独創性に乏しく、人物デッサンを嫌う傾向があったという。
ヒトラーが絵葉書売りで生計を立てた時も既存作品の模写が多かったという。
ヒトラーは1908年9月徴兵忌避のため連絡を絶った。
その後、ヒトラーはたびたび住居を変え、1909年11月末頃には
浮浪者収容所
に入っている。
その後、公営の独身者寄宿舎に移り住み、1913年5月13日までここで暮らしている。
ヒトラーは恩給や自作の絵葉書・絵画販売の収入もあり、比較的安定した生活を送っていた。
なお、義姉アンゲラから、1911年に妹パウラに孤児恩給を譲るよう訴訟を起こされたが同年叔母ヨハンナが死亡し、2000クローネにおよぶ遺産を相続したため孤児恩給を放棄している。
ヒトラーは食費を切り詰めてでも歌劇場に通うほど
リヒャルト・ワーグナー
に心酔していたとされる。
また、暇な時に図書館から多くの本を借りて歴史・科学などに関する豊富だが、偏った知識を得ていった。
なお、その中にはアルテュール・ド・ゴビノーやヒューストン・チェンバレンらが提起した人種理論や反ユダヤ主義なども含まれていたようだ。
ヒトラーの絵や葉書を買い付ける
ユダヤ系の画商
と親睦を結んでおり、しばしば夕食会に参加していた。
オーストリア=ハンガリー帝国の兵役を逃れるため1913年にミュンヘンに移住した。
ミュンヘンでは
仕立て屋職人 ポップ
の元で下宿生活を送った。
ヒトラーは平均100マルクの月収を得ていたが1914年1月18日にオーストリア当局に逮捕されて本国に送還された。
しかし、検査で不適格と判定されたため兵役を免除された。
1914年にサラエボ事件から勃発した第一次世界大戦では愛国心から
ドイツ帝国の兵隊
として戦う事を望みバイエルン国王に直接請願し、志願兵として
バイエルン後備第16歩兵連隊
に入営した。
その後10月から終戦直前まで西部戦線で戦った。
死傷率が8割前後と高い激戦の中を生き抜き、司令部の伝令としての技能を発揮した。
1914年12月1日には二級鉄十字章、大戦も終わりに近い1918年8月には一級鉄十字章を授与された。
また、1916年10月には負傷している。
ただ、オーストリア出身のヒトラーの階級はGefreiter(兵長)止まりであり、それ以上昇進する事は無かった。
1918年10月15日、ヒトラーは
塹壕戦
での毒ガスで神経を冒され、一時的に視力を失って入院した。
毒ガスの特性によって脳神経に一過性の傷害を負った。
また精神的にも傷ついたヒトラーは
ヒステリー
と診断され、軍医により催眠術による治療を受けた。
このため、第二次世界大戦では敵の報復攻撃による損害の大きさも考慮し自軍による毒ガスなどの化学兵器の使用を厳禁している。
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