森村 市左衛門(もりむら いちざえもん)
武具商・陶磁器業などを営んだ森村家の歴代当主が襲名した名前で、特に、森村財閥の創設者である
6代目・市左衛門
(天保10年10月27日(1839年12月2日)
-大正8年(1919年)9月11日)
が有名となった。
もともと、初代・市左衛門は遠江国森村(現・静岡県菊川市)出身で旗本屋敷などに出入りする武具商として江戸・京橋に店屋敷をおいていた。
2目代から5目代までは森村家の娘が夫にむかえた者が当主となっている。
なお、6代目の妹ふじの夫は
を創業するなど森村財閥の発展に大きく寄与した大倉孫兵衛である。
1855年、6代目が16歳の時に起きた
安政の大地震
で屋敷・家財を全て失った。
安政江戸地震だが、この前年にあたる1854年(安政元年)にも南海トラフ巨大地震である安政東海地震および、安政南海地震、飛越地震、安政八戸沖地震、その他伊賀上野地震が起きている。
震災の片付け人足としての労働の傍ら、夜は銀座で露店を出し
煙草入や財布
を売って生活し、資金を蓄えて一家はほどなく武具商に戻ることが出来た。
1858年の日米修好通商条約締結による開港を受けて、翌年から横浜で外国人の洋服・靴・鉄砲・懐中時計などを仕入れ、土佐藩・中津藩などに販売を始めた。
この時、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)を領有した中津藩の
福澤諭吉
と知り合っている。
さらに戊辰戦争期には官軍の総督参謀
板垣退助
の軍需品調達を担当し、騎兵用の鞍や軍服を売り財をなした。
明治維新後、この資金を元手に1869年から翌年にかけて大阪城内での養蚕や小樽での網を抵当とした漁師への融資事業、四国での銅山経営などを次々と行なったが、ほとんどの事業が失敗し負債を抱えて破産した。
しかし、戊辰戦争で作り上げた関係から帝国陸軍重騎兵用の馬具を製造・販売する工場の経営を始めることが出来た。
フランス軍から製造法を学び、工員が数百人を超えるまでに事業が成長して借金の返済に成功した。
ただ、その後、担当の役人から賄賂を要求されたため、馬具製造業をやめたと言われている。
その後、銀座で洋裁店モリムラテーラーを営んでいた弟の
森村豊
が1876年にニューヨークへ渡る事を決めた事から匿名組合森村組(現・森村商事)を設立した。
森村豊は、1876年(明治9年)内務省勧商局の支援と福沢諭吉の協力をうけて、佐藤百太郎が計画した
米国商法実習生
の一人に選ばれてニューヨークに渡った。
現地の学校で商業・語学を3ヶ月学んだ後、現地で商売をしていた佐藤百太郎とともに日の出商会を設立した。
6代は骨董品や陶器・提灯などを仕入れて米国に送り、業績が好調なことから森村豊は1878年にニューヨークの六番街で森村組の現地法人として
森村ブラザーズ
(Morimura Bros. & Company)
を単独で開業した。
また、6代の義弟・大倉孫兵衛は日本橋で老舗の
絵草紙(草双紙)屋
を経営していたが、ほどなく森村組に参加するようになった。
森村ブラザーズの経営は小売から卸売への転換で順調に軌道に乗り、翌1879年には売上高が5万ドルを超えた。
新しい店に移転(住所:546 Broadway)し120人以上の従業員を擁した。
森村豊は福沢諭吉の推薦により村井保固を日本から迎え入れ、森村ブラザーズのアメリカ支配人とした。
1893年(明治26年)に森村豊は、森村と同じ船で渡米した仲間の一人である新井領一郎のパートナーとして日本製生糸の輸入販売を行う
森村・新井商会
(Morimura, Arai & Company)
を設立した。
この当時から個々の商品当たりの利幅が大きい小売業から大量取引が可能な卸売業への転換を決断し、当時アメリカでの生産がほとんどなかった陶磁器、特に日用の食器を扱うようになっている。
1885年より注文を受けてから生産を行ない、かわりに通常よりも値引きをする事で
効率的な在庫管理
に成功し、1889年には売上高が25万ドルに達した。
その後、1906年には推定売上げが約500万ドルと大きく伸びた。
取引の規模が大きくなったことから1893年には生地の生産地である名古屋に専属窯を設けるようになった。
更に翌年には、それまで東京・京都に外注していた
絵付け(上絵付)の工程
も集約して名古屋に絵付工場を設立した。
なお、1894年1月16日には6代・市左衛門を襲名している。
1906年には専属工場を全て合併し、錦窯組とした(後に日本陶器が吸収)。
経営を拡大する一方で、それまでの主力商品だった壺やコーヒーカップなど一点物の陶磁器だけでなく、百点近い皿・椀などからなるディナーセットの生産を目指して
日本陶器合名会社(現在のノリタケカンパニーリミテド)
を1904年に設立した。
ディナーセットに用いる白色硬質磁器の開発は困難を極めたが、1910年に製作責任者に招きいれた
の尽力などによって1914年についに完成し、7年後の1921年には対米輸出が6万セットを超えるまでになった。
従来からの一点物も輸出は順調であり、1914年日本の陶磁器輸出に占める日本陶器社製品の割合は40%以上となった。
その後シェアは低下するものの金額は数倍に増えて1921年には会社の輸出額が1,000万円を超えた。
また開発コスト負担の問題などから1909年に組織を見直し、日本陶器が生地を生産し、森村組は絵付けを担当、森村ブラザーズが営業・販売を行うこととなった。
さらに1917年から翌年にかけてそれまでの森村組の事業と陶磁器以外の物品の輸出入を行う森村商事株式会社を設立し、森村組は持株会社となった。
この他、硬質磁器の製造技術を活かして1905年より高圧がいしの製造を始めて芝浦製作所(現:東芝)に納入した。
没年の1919年には
として独立している。
また、衛生陶器について1912年から研究を行い、1917年に
東洋陶器株式会社(現:TOTO)
を設立した。