当ブログ内の情報はあくまでも参考情報です。投資にあたっての判断は投資する人の自己責任でお願いします。
当ブログでは、一切の責任を負いませんでご了承下さい。

マーケット出来事貴金属とレアメタル宝石と宝飾品貴金属の取引方法貴金属取扱会社

2010年09月13日

織田 信長

 織田 信長

天文3年5月12日(1534年6月23日)
          −天正10年6月2日(1582年6月21日)
 
  戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。
 
 尾張国の戦国大名
   織田信秀
の嫡男として、那古野城(現在の名古屋市中区)で生誕、幼名は吉法師。
 
 世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の
   織田大和守家
が支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せてていた。
 
 
 合理主義で現実主義な思考があった。
 下克上の風潮が強い時代でもあり、暗殺の画策などの影響が常にあった。
 
 親族間の争いが続いたことから自らの周囲に対し冷酷さや猜疑心が強く父親織田信秀や養育係の平手政秀の影響などで備えた知性により、尾張国守護代の一家老に過ぎなかった織田家を、全国第一勢力にまで押し上げた。
 
 農民兵が中心で農繁期には帰農する国が多い中、兵農分離を徹底し軍事専門の部隊を組織した。
 
 一所懸命という言葉にもあるように、忠誠心の裏づけ伴う論功行賞において土地本位から金銭雇用の傭兵の採用など軍事組織の変革を進め、中央政権の基礎を築いていった。
  
 
 戦闘方法においても世界最初とも言える鉄鋼船の建造や18世紀になってから西洋で取り入れられた集団による連射など戦闘方法の改革を独自に考えて実行していった。
 
 
 天下統一を目指したが、統一を目前にして志半ばにして家臣の明智光秀の謀反で本能寺にて死亡した。
 
 豊臣秀吉、徳川家康に信長政権は引き継がれたものの暗愚な後継者の政策により、世界一の軍事大国であり金、銀、銅などの鉱工業の生産高も世界第一の国であった日本だが、戦国時代の終焉とともに実施した武力放棄等の刀狩りなどや鎖国等により海外への領土拡大の道を自ら閉ざした。
 
 なお、国外に数万人に及ぶ日本人が移住し貿易等に従事していたが、鎖国とともに帰国し、或いは現地に残ったものは同化している。
 
 
 天文20年(1551年)に急死した父の後を受けて家督を継いだ。
 「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が同母弟・織田信行(信勝)を支持したため家督争いが発生した。
 これに勝利すると、その後は敵対勢力を次々と下していき、尾張国を統一した。
 

 永禄3年(1560年)、兵力的に圧倒的優位にあった
   今川義元
を桶狭間の戦いで破り天下取りの道を進むこととなった。
 
 永禄10年(1567年)に美濃国の斎藤氏を滅ぼし、その翌年には足利義昭を奉じて上洛を果たしている。
 
 
 義昭を将軍職につけ擁立したが見識のみで実力がない義昭の行動が支障となり元亀4年(1573年)に追放している。
 
 以後、天下布武を推し進め、領土内の流通網の拡大を図り楽市楽座や収益の算出のために検地などを実施し、重商主義的な政策を推し進めた。
 
  
  
 
   ↓ 参考になったらクリックお願いします。
  人気ブログランキングへ
  
 

 


 
 
 
  
posted by まねきねこ at 08:00| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

 

[Most Recent Quotes from www.kitco.com]