大村 純忠
戦国時代のキリシタン大名
三城城主であり日本初のキリシタン大名で長崎港を開港した人物
キリシタン大名の有馬晴信は甥に当たる。→ ranking
純忠は肥前国有馬の出身で1538年、肥前の有力豪族であった大村純前の養嗣子となり、1550年に大村氏の家督を継いだことで大村家と有馬家の間に姻戚関係が成立した。
ただ、純前には実子(庶子の後藤貴明)がおり、この養子縁組のために貴明は武雄に本拠を置いていた後藤氏に養子に出されている。→ ranking
1561年、松浦氏の領土であった平戸港でポルトガル人殺傷事件が起こると、ポルトガル人は新しい港を探し始め、純忠は1562年、自領にある
横瀬浦(長崎県西海市)
の提供を申し出た。
当然ながら、イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠は貿易による利益確保の目的もあり、あわせてイエズス会員に対して住居の提供など便宜をはかった。
結果として横瀬浦はポルトガル船が入港し、商品の流通が膨らんだことでにぎわい、純忠のこの財政改善策は成功したという。→ ranking
宣教師から1563年、にキリスト教について学んだ後、純忠は家臣とともに
コスメ・デ・トーレス神父
から洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した。
大村領内では最盛期のキリスト信者数は6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいたとされる。→ ranking
なお、純忠の入信についてはポルトガル船のもたらす利益目当てという見方が根強いが横瀬浦を開港した際、仏教徒の居住の禁止や、貿易目的の商人に十年間税金を免除するなどの優遇を行っている。→ ranking
純忠の信仰は過激なもので、大友宗麟が行ったと同様に領内の寺社をことごとく破壊し、先祖の墓所も打ち壊した。
また、領民にもキリスト教の信仰を強いたため、この行過ぎたやり方は家臣や領民の反発を招くことになった。→ ranking
純前の庶子・後藤貴明は、純忠に不満を持つ大村家の家臣団と呼応し反乱を起こして横瀬浦を焼き払った。
なお、1570年に純忠はポルトガル人のために1つの港を提供、良港として以後、大発展し後の長崎となった。
1572年には松浦氏らの援軍を得た後藤貴明の軍勢1500に居城である三城を急襲され、城内には女子供も含めて約80名しかいなかったが、援軍が来るまで持ち堪え、これを撤退に追い込んでいる。
また、1578年に長崎港が龍造寺軍らによって攻撃されると純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退した。
その後1580年、純忠は長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進した。→ ranking
巡察のため、日本を訪問したイエズス会員
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
と対面し、1582年に天正遣欧少年使節の派遣を決め、名代として甥にあたる千々石ミゲルを派遣した。→ ranking
1576年 - 1577年頃には龍造寺隆信の圧迫を受け、4人の子のうち喜前を除く3人までを人質に取られ、ほぼ従属状態にあった。
1584年の沖田畷の戦いにも龍造寺方として従軍したが、親族である有馬勢との戦いには消極的で空鉄砲を撃っていたと言われる。
1585年、豊臣秀吉の九州征伐においては秀吉に従って本領を安堵された。
1587年5月18日に坂口の居館において肺結核によりこの世を去った。→ ranking
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2009年11月12日
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