当ブログ内の情報はあくまでも参考情報です。投資にあたっての判断は投資する人の自己責任でお願いします。
当ブログでは、一切の責任を負いませんでご了承下さい。

マーケット出来事貴金属とレアメタル宝石と宝飾品貴金属の取引方法貴金属取扱会社

2009年01月12日

大友 宗麟

大友 義鎮
  大友 宗麟(法号)
 戦国時代の武将 豊後の戦国大名でキリシタン大名としても知られる。→ ranking
 
 鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏・島津氏とともに幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るっていた。
 室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争するようになった。→ ranking

 享禄3年1月3日、大友家第20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後府内に生まれた。母は大内義興の娘といわれている。なお、周防大内氏の家督を継いだ大内義長とは異母兄弟にあたる。 
 当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受け
   キリシタン大名
としても有名で一時は九州6ヶ国を平定し、九州最強の大名となった。
 キリシタン王国の建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後1国を維持するまでに衰退した。→ ranking

 父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策して、守役の入田親誠と共に義鎮の廃嫡を目論み、天文19年(1550年)2月に義鎮を強制的に湯治に行かせているその間に義鎮派の粛清を計画した。
 それを察知した義鎮派重臣が謀反を起こし、2月10日に塩市丸とその母を殺害し義鑑も負傷して2月12日に死去するという政変(二階崩れの変)が起こった。
 なお、入田親誠ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。→ ranking

 天文20年(1551年)に周防の大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反により自害、義鎮は隆房の申し出を受けて弟の大友晴英(大内義長)を大内家の新当主として送り込んだことにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符を討った。
 
 これにより北九州における大内家に服属する国人が同時に大友家にも服属することになり、周防・長門方面にも影響力を確保した。
 特に博多を得たことは、大友家に多大な利益をもたらした。→ ranking

 叔父の菊池義武の反乱をしりぞけ、天文23年(1554年)には菊池氏を滅亡させて肥後の勢力も確保した。
 
 義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教信仰を許可したためこれが大友家臣団の宗教対立に結びついて反乱等が続発、鎮圧に手間取った。→ ranking

 弘治3年(1557年)、義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失った。
 元就が北九州に進出してくると義鎮は毛利氏との対立を決意し、これと内通した筑前の秋月文種を滅ぼすなど北九州における旧大内領は確保することに成功した。→ ranking 
 
 毛利氏は山陰の尼子氏を滅ぼすと、再び北九州へ触手を伸ばし豊前や筑前方面で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起したが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させた。
 天正4年(1576年)、家督を長男の義統に譲って丹生島城(臼杵城)へ隠居した。→ ranking

 天正5年(1577年)、薩摩の島津義久が日向侵攻を開始すると、宗麟も大軍を率いて出陣したが天正6年(1578年)に耳川の戦いで島津軍に大敗し、多くの重臣を失った。→ ranking 
 
   
posted by まねきねこ at 16:28| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: