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2009年05月12日

斎藤 利三

斎藤 利三
 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将
 血筋的には、斎藤道三とは別の系譜の本来の美濃斎藤氏の一族にあたる。
 父は斎藤利賢、母は蜷川親順(室町幕府の重臣蜷川氏)の娘の次男として天文3年(1534年)に生まれた。→ ranking
 
 寛政重修諸家譜によると松山新介に仕えたのち、斎藤義龍に仕え、後に、西美濃三人衆の一人であった稲葉一鉄が織田氏へ寝返ると、それに従って稲葉氏の家臣となった。
 その後、美濃曽根城主になったが天正8年(1580年)に稲葉一鉄と喧嘩別れし、明智光秀との縁戚関係であったことから光秀に仕えるようになったといわれる。
 光秀には重用され、明智秀満と並ぶ明智氏筆頭家老として用いられた。
 光秀の丹波平定後、1万石を与えられて丹波黒井城主となり、氷上郡統治にあたった。→ ranking

 天正10年(1582年)、光秀が織田信長に対し本能寺の変を計画すると、藤田行政、溝尾茂朝、明智秀満などの一部の重臣に計画を打ち明けた。→ ranking
 
 重臣の利三もそのメンバーの中に含められており、当時、信長が土佐の戦国大名で利三の妹婿である
   長宗我部元親
攻撃のために織田信孝と丹羽長秀を四国に出撃させようとしていたため背後を狙って秀満や利三も謀反に賛成したようだ。→ ranking

 ただ、本能寺にて信長を討った後、中国から引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いでは先鋒として活躍したものの敗走した。
 秀吉の執拗な捜索により近江堅田で捕縛され、六条河原で斬首となった。→ ranking 

 利三の首は彼と親交の深かった絵師の海北友松により、京都市左京区浄土寺真如町の真正極楽寺へ葬られた。
 なお、娘の福は稲葉重通の養女となり、江戸幕府の第3代将軍徳川家光の乳母となり、権勢を誇った。→ ranking
   
   
posted by まねきねこ at 05:00| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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