ジョニー・トーリオ(John "Papa Johnny" Torrio)
1882年2 月 - 1957 年4月16日
禁酒法時代のシカゴ・アウトフィットとして知られる犯罪組織のボス
別 名 "ジョニー・ザ・フォックス"("Johnny The Fox")の愛称で知られる。
本名はジョヴァンニ・トッリオ(Giovanni Torrio)
イタリアのバジリカータ州イルシーナに生まれ、2歳のときに母マリアとニューヨークに渡った。
フランキー・イェールと共に、暗黒街におけるアル・カポネの育ての親。カポネに大きな影響力を与えていた。
アル・カポネの息子のソニーの名付け親でもある。
小柄で、内気で、几帳面で、頭がよく紳士的で気前もよかったと言われている。
また、煙草も酒も賭博もやらず、自分の売春宿の娼婦に手を出したりしなかった。
NYのローワー・イーストサイドに暮らし、10代でファイブ・ポインツ・ギャングと繋がりを持った。
19歳の時にJ・T・マッカーシーという偽名でボクシングの興行を始め、八百長試合と賭け率を操り、一財産築いた。
ナンバーズ成功を収め、宝くじ専門のギャングスターとして通っていた。
駆け出しのアル・カポネをコニーアイランドで幅をきかせていたフランキー・イェールに紹介した。
1920年代シカゴの売春王
の下で働くようになった。
コロシモの経営する
売春宿 サラトガ
を支配人として任せられ、組織の基礎を作った。
彼は売春宿の管理を徹底し、中には8時間の3交代制で60名の娼婦が交代勤務で対応し、店を回していた所もあったという。
トーリオたちがやりたかった酒の密売にコロシモが反対していたため殺人株式会社として知られる
に1万ドルで暗殺を依頼している。
なお、直接手を下したのはフランキー・イェールの部下だったという。
禁酒法が実施されると彼の組織は、酒の密売から年間400万ドル、賭博からもほぼ同額、売春から200万ドルの利益を上げ、シカゴ郊外でも400万ドルの不当利益を得ていたという。
オバニオンは事前に手入れが行われることを知りながら1924年にシーベン醸造所の持分をジョニー・トーリオに譲渡、5月19日に警察の手入れが行われ逮捕されている。
この暗殺では現金1万ドルと4カラットのダイヤの指輪を報酬としてイェールに出した。
なお、トーリオはシカゴで大きな政治力を発揮するが自分の地位を誇示することはなかった。
NYにいたころと同じく、ひっそりとアパートでアンと暮らした。
1925年1月24日、妻のアンと買い物から帰りアンが先に車を降りアパートの入り口に向かいトーリオが後ろにいたところオバニオンの部下だった
ハイミー・ヴァイス
ジョージ・"バグズ"・モラン
がトーリオの方に向かって銃を発砲、胸と首に2発食らって路上に倒れ、近づいてトーリオの右手と股間を撃ち、とどめの一発を撃とうと引き金を引くと薬室が空で逃走した。
トーリオは救急車で病院に運ばれ、手術を受け一命を取り留めた。
ベッドから起き上がれるようになった1925年2月9日に連邦裁判所でシーベン醸造所の手入れの件で5千ドルの罰金と9ヶ月の服役を命じられた。
影響力を使い、トーリオは気楽な刑務所暮らしをした。
その後、ギャングスターとして引退する時期が来たのを覚悟し、カポネに組織を譲り渡した。
なお、引退する時にカポネから10年間利益の25%をもらい、カポネの相談には乗るという約束をしたという。
1929年に静かな引退生活をしていたが、アトランティックシティで行われた暗黒街の会議に顔を出している。
カポネたちとニューヨーク・ギャングの
ら両方と友好関係を持つトーリオは
全米犯罪シンジケート
設立のためにこの会議で中心的な役割をしたと言われている。
1938年には、ニューヨーク市北方のホワイト・プレインズで隠居生活を送っていたが連邦政府はトーリオをカポネと同じように脱税で立件しようと準備していた。
1957年4月16日、トーリオは床屋で散髪中に心臓発作で倒れた。