Joseph Patrick "Joe" Kennedy Sr
(1888年9 月6日 - 1969年11月18日)
アメリカ合衆国の実業家で初代証券取引委員会委員長や在イギリスアメリカ合衆国大使を歴任した。
第35代大統領のジョン・F・ケネディと同政権下の司法長官ロバート・ケネディの父として知られる。
一方、マフィアとの深い関係や、インサイダー取引や密輸などの度々の違法行為が問題視された人物として有名。
ボストンでアイルランド系カトリックの共同体の指導者
パトリック・J・ケネディ
の子として生まれ、自らをヤンキーの排除の犠牲者であると看做すという非常に党派的な環境で育った。
パトリックが育った家庭は
酒類販売業
で成功し、地方政治上での有力な役目などで繁栄し裕福であった。
ボストンの名門公立高校
ボストン・ラテン・スクール(情報)
に入学したものの平均以下の成績だった。
しかし、地域的な活動では指導的な立場の家庭であったため学級委員長や学校の野球クラブで活躍した。
父親の財産を元に株取引(その多くがインサイダー取引)などで財産を蓄積しビジネスマンとして大きな成功を収めた。
特に、RCA株の買占めや、その前に行ったRKOの前身の
ロバートソン=コール
への投資で知られている。
1920年代の禁酒法時代には酒類の違法製造や密売、密輸にも積極的にかかわり、この頃よりマフィアと密接な関係を持つこととなった。
また、禁酒法時代に違法酒造ビジネスを通じてつき合いがあったマフィアの
フランク・コステロ
はジョゼフが金持ちになる手助けをしたのは俺だと語っていた。
相場から撤収する時期を知ったのは
靴磨きの少年
が「株の話」をするのを靴を磨かせた時に聞き、1929年の世界恐慌による株価暴落を事前に察知したとも言われている。
大衆の熱狂を受け入れる市場は危険だと判断し、持ち株の殆どを売り逃げ、暴落を回避して成功した。
他の投資家たちが破産するのを尻目に莫大な利益を得たといわれている。
なお、以後はそれを元手に堅実な業家に専念した。
1932年に、フランクリン・ルーズベルトの政治資金を集めたことが認められ政界に進出した。
1934年には、当時の証券業界に蔓延していた多数の不正への対策として設立された証券取引委員会の初代委員長に任命された。
1936年には、海運や港湾関係を取り仕切る連邦海事委員会委員長に任命された。
その後、第二次世界大戦を前にヨーロッパ情勢が緊迫する中、1938年には在イギリスアメリカ合衆国大使に任命されている。
ただ、ジョセフはドイツに対する宥和政策を支持したことによりシオニストグループから追及を受けて辞任に追い込まれて政治生命を絶たれた。
ジョセフ自身は将来自分は大統領になれると思っていたようで、自分の果たせなかった大統領の夢を息子達に託し
・どんな事があっても
・どんなを手を使ってでも
・我々は勝たねばならない
という競争意識を植え付ける英才教育を施した。
そして、おまえ達は大統領を目指さなければならないというのが口癖であったという。
この夢を実現させるためにジョセフは息子たちに多大な援助を行った。
1946年にボストン市長になるために
ジェームズ・M・カーレイ
が民主党下院議員を辞職した時、ジョンがその議席に就くため補欠選挙に立候補して勝利し下院議員となった。
その後ジョンは下院3期目の1952年には上院議員選挙に出馬し当選を果たしている。
第二次世界大戦後の冷戦初期において
赤狩り
で西側諸国を震撼させた
ジョセフ・マッカーシー
上院議員とは、同じアイルランド系であり親しく関係を持っており、この関係はその後息子のジョンにも引き継がれた。
なお、民主党の方針でマッカッシーの譴責決議案に賛成票を投じざるをえなかったジョンは
かねてから必要とされていた手術を受ける
ことを口実に投票を棄権している。
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