フランク・コステロ
(Frank Costello)
1891年1月26日 - 1973年2月18日
本 名 フランチェスコ・カスティーリャ
(Francesco Castiglia)
イタリア系ギャングの一人で
コーサ・ノストラ幹部
で冷静沈着な性格で、あまり暴力を好まず政治的力を駆使するタイプといわれている。
そのため「暗黒街の首相」というニックネームが付けられ1930年代後半から1950年代中頃までマフィア最高幹部会コミッションの議長となった。
また、FBIのジョン・エドガー・フーヴァー長官やジョセフ・P・ケネディと付き合いがあった。
コステロはイタリアのカラブリア地方のラウロポリの出身、父親は貧農の
ドン・ルイギ
母親はマリアで二人の6番目の子である。
1895年10月4日に母親やその姉妹とともにアメリカに移住し、イタリア人が多く住んでいたイースト・ハーレム(NY)で公立学校に通うが、13歳のときにはやめていた。
父の勧めでピアノ工場で働くようになるが、12時間の厳しい労働の上、給料も安かったため、1年ほどでやめている。
その頃知り合った
ら不良仲間と共に、ギャングスターの道に入った。
最初は窃盗、強盗、自販機荒らしなどで小遣いを稼ぐようになりこの頃からフランク・コステロと名乗るようになった。
18歳頃、10歳上の兄エドワードと
ゴーファーズ
というギャング組織に入り、そこで
オウニー・マドゥン
と知り合いになった。
1914年9月23日に知人の妹のロレックというドイツ系ユダヤ人と結婚した。
この結婚の許可証を申請する際にフランク・コステロという名を使っている。
1915年には、武器の不法密輸で11ヵ月間服役、出所後に
ラッキー・ルチアーノ
と知り合いになり、彼のコーサ・ノストラ掌握に協力、ルチアーノファミリーのアンダーボスとして活躍した。
コステロは違法スロットマシンで財を蓄え、政治家、裁判官、警察を買収していった。
この頃よりFBIの
ジョン・エドガー・フーヴァー長官
との付き合いが始まったと言われており、コステロとフーバーは2人とも競馬好きで一緒にレース見物に行った事もある。
コステロはそういう時フーバーの10ドル、20ドルというケチな賭けのため
インチキレース
を仕組んだりしたとも言われている。
また、1920年代の禁酒法時代に違法酒造ビジネスを通じてつき合いがあった
ジョセフ・P・ケネディ
のことを
ジョゼフが金持ちになる手助けをした
のは俺だとも語っていた。
ただ、コステロは麻薬ビジネスには乗り気がしなかったためファミリー全体に麻薬を禁止していた。
これにはギャンブルや闇酒と違い麻薬の場合、大衆やマスコミも容赦しないし、それに当局の取り締まりも厳しかったための措置で、さらに部下の身内に麻薬によって廃人同然になった者もいたことが背景のようだ。
コステロは1929年のアトランティックシティ会議ととき、アル・カポネの反対を押し切って
スロット・マシーン事業
としてルイジアナ進出をすることを決定させた。
そのときルイジアナ州進出のため、ルイジアナのボスの
サム・カローラ
と取引をした。このアトランティック・シティのプレジデント・ホテルで行われた会合を招集したのはコステロだという。
スロットマシンやカジノなど自分の事業の重点に力を入れていたため、ファミリーの構成員に対し、さほど強い締め付けはなく、部下は自由に自分のビジネスをすることが許されファミリー全体が潤っていた。
スロットマシンでは1年間で1800万ドルを稼ぎ出したとも言われている。
しかし、フィオレロ・ラガーディアがNY市長になると、スロットマシンは州により禁止処分されたため大きな打撃を受けた。
その後、スロットマシンのビジネスはルイジアナ州前知事の
ヒューイ・ピアース・ロング
の誘いを受けて、ニューオリンズに移し、そこを拠点にした。
そこでもスロットマシンビジネスは繁栄し、マフィア内でコステロの影響力は拡大していき不動の地位を確保した。
コステロは東海岸のあちこちで法の目をかいくぐりながら、違法スロットマシンのビジネスをしていた。
それがネバダ州では合法となり
ベンジャミン・シーゲル
のフラミンゴの話に理解を示した。
しかし、コミッションが融資した建設費が当初の予算を大きく超え、バグジー・シーゲルのフラミンゴの建設費横領を疑うこととなった。
フラミンゴで利益が出るとコステロはラスベガスでトロピカーナ・ホテルを所有している。
1936年にルチアーノが売春容疑で逮捕されると
との間に後継者争いが生じた。
一時、当局の摘発を恐れたジェノヴェーゼがイタリアに逃れるとルチアーノ一家を支配するようになった。
ルチアーノが第二次世界大戦後の1946年にイタリアに移送されると、代わってジェノヴェーゼがアメリカに戻ってきて後継者争いが再燃した。
ただ、コステロは
キーファーヴァー委員会
に召還されて組織犯罪の追及を受けたことで服役を繰り返した。
ジェノヴェーゼは一家内でのコステロの強力な支持者である
を、梅毒の後遺症による精神障害を理由に1951年10 月4日に粛清させることに成功した。
ただ、コステロは盟友の
をマンガーノ一家のボスに据えてジェノヴェーゼに対抗した。
コステロは所得税法違反に問われ1956年5月14日に有罪になった。
この影響からジェノヴェーゼから引退した身にさせられ、反抗することもなく、ジェノヴェーゼにルチアーノファミリーのボスの地位を譲り渡して犯罪組織から引退した。
その後、1952年10月25日にアナスタシアは暗殺されたが、これはアナスタシアのアンダーボスだった
にジェノヴェーゼが手を回した結果だといわれている。
ジェノヴェーゼは1959年に麻薬取締法違反で捕まった。
ネルソン・カルテロップス
という麻薬売人に10万ドルを渡し、証人に仕立てあげ有罪を決定付ける証言をさせtえ投獄することに成功した。
コステロは静かな余生を表面上は送っている最中に
らが麻薬密売のかどで逮捕された。
これはコステロが復讐のためにルチアーノ、ランスキー、ガンビーノらと手を組んだものと言われている。
なお、映画「ゴッドファーザー」でマーロン・ブランドが演じたドン・ヴィト・コルレオーネのしゃがれ声は、コステロをまねしたもとと言われている。