若尾 逸平 わかお いっぺい
(1821年1 月 9日−1913年9月 7日)
根津嘉一郎、雨宮敬次郎らとともに、郷土意識で緩やかな資本連合を持ち、中央経済界で影響力を持った
甲州財閥
と呼ばれるグループのひとりで、若尾家はその中核にあたる。→ ranking
甲斐国西郡筋在家塚村で若尾林右衛門の長男として生まれた。
逸平は22歳の時、庭先に実っていた桃の実を見て商売を思いつき、これを竹かごに積んで行商を始めた。
在家塚村周辺は水が少な一域であり畑作のほか綿花や煙草の栽培が行われていたため、タバコ・真綿・繰り錦・篠巻などの産物を扱い、天秤棒を担いで笹子峠・小仏峠をも越えて甲府や江戸まで行商の範囲を広げた。→ ranking
江戸では団扇などを仕入れてこれを甲斐で売ったりしたが、笹子峠で追い剥ぎに襲われた上に団扇を雨で濡らしてしまい商品にならなくなったこともあったという。→ ranking
巨摩郡小笠原村(現在の南アルプス市)の質屋
若松新左衛門
の娘婿となり、当時傾きかけていた店を見事に立て直したものの妻・おたつと店の番頭である与作との不義を見て店を出奔、安政初年に甲府八日町へ転居すると借金50両を資本に
織物・生糸の仲卸業
を始め、横浜で外国人相手に生糸・水晶の商売を行い、生糸輸出の投機で莫大な利益を得るようになった。→ ranking
1862年(文久2年)には甲州島田糸の製造機を改良した製糸器械である
若尾式機械
を発明し製糸業にも参入し、工女を集め精製させた
幕末の横浜開港以来、甲州屋忠右衛門らの投機商人が出現し甲州物産の交易を行い、甲府柳町の太田屋佐兵衛など伝統的な甲府の富豪に加え、逸平や風間伊七、八嶋栄助など在方の新興商人が台頭し勢力を拡大した。→ ranking
明治維新後、逸平は莫大な資金を株取引に投入し、1878年(明治11年)には
若尾両替店
を開業して銀行類似業務を開始し、第十国立銀行創立にも参加して取締役に選任された。
若尾は山梨県の政財界において多大な影響力を持つまでになっていたが、県令
藤村紫朗(熊本藩士)
の相談役で第十国立銀行頭取である
栗原信近
の推進する殖産興業政策に対しては反対意見を持っており、明治15年1月7日は第十銀行総会において、紡績業振興のために設立された
興産社の経営破綻問題
に関して役員改選を主張し、興産社への追加融資を主張する栗原の追い落としを行い、代わって頭取に佐竹作太郎を選任させた。→ ranking
なお、1872年(明治5年)に起こった大小切騒動で家や工場が焼き打ちに遭い、また世界的には普仏戦争で生糸の値段が暴落したことなどから製糸業からは手を引き、弟の幾造に財産を分与し横浜で独立させ横浜若尾家として分家し生糸問屋を営み若尾財閥の一角となる。
若尾は1892年にまず東京馬車鉄道を、次いで1895年に東京電燈(後の東京電力)を買収しこれを傘下に収めるなど、公共事業に参入していった。→ ranking
また、山梨県内においても明治23年には釜無川に開国橋を架けて郷里である西郡地域の交通基盤整備を行い、駒橋発電所の建設や開国橋の建設費寄付、実現には至らなかったが荒川上流での発電所建設計画などの社会貢献も行った。→ ranking
1889年(明治22年)、市制施行された甲府市の最初の市長に任命され、翌1890年には貴族院多額納税議員互選規則が公布、山梨県初の貴族院議員となった。→ ranking
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2010年06月20日
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