呉錦堂(ご きんどう)
1855年11月14日 - 1926年1月14日
明治から大正時代の在日中国人貿易商で相場師
浙江省寧波府慈谿県の生まれ
在日華僑最大の豪商で勲六等瑞宝章・紺綬褒章を受章している。
中国浙江省で安政5年に生まれ、長崎に31歳(明治18年)の時に上陸し、のち大阪に移り、行商をしながら日銭を稼ぐ生活を続けた。
多少の蓄財ができたところで、神戸で貿易商を開いた。
その後、店を呉錦堂合資会社と名称を変更してからは経営が軌道に乗り、マッチ、綿花、穀類を扱いながら次第に店を大きくしていった。
日露戦争中に、ドイツ船(1427トン)を買い入れて錦生丸と名づけ商品の運送に利用した。
その後、実力をつけた華商に成長、中国に紡績工場を建設した武藤山治と知り合った。
1890年、資本金30万円で神戸において貿易、海運の会社
怡生号
を創立、1899年、住友と契約して石炭を中国に輸送した。
日露戦争開戦前に、当時のお金で45万円の軍債を提供、日露戦争の頃、呉錦堂は製造業にも乗り出し、先ず紡績に投資し、ついで東亜セメントを創立するとともに日中の多くの企業に投資した。
武昌蜂起の後、三井物産は日本政府と横浜正金銀行に対し、孫文に借款を提供して中華民国政府樹立を支援し、漢冶萍公司の日中合作の経営権取得を提案した。
鐘紡の社勢は武藤が経営に携わってから順調に伸びていった。
武藤は紡績合同論を推し進め、中国を将来の開拓地とにらんで上海に進出を画策して、明治31年訪中の旅に出た。
その時同行したのが、鐘紡の糸を一手に販売する八木商店の
八木与三郎
で、手薄い資本ながら大阪・南久太郎町に店開き、持ち前の商売熱心で頭角を現し、神戸にも週二、三回来ていたという。
八木は中国商人から綿糸を買って売りさばくのが主な仕事だが、ヒマを見つけては鐘紡兵庫工場を訪れていた。
ここで綿糸の善し悪しを勉強した。
鐘紡製品にはとことんほれ込み、商売を広げた八木もまた、合理主義を経営の中心においていた商人であった。
福沢諭吉の薫陶を受けた三田系経済人のリーダーであり三井の総帥
中上川 彦次郎
が鐘紡の再建に武藤山治を送り込んだが、明治34年10月7日に働きざかりの48歳で中上川が死去した。
なお、三井の後見人をしていた井上馨が組織を拡大しすぎて手持ち資金が不足し、経営危機に陥った三井を救うために、山陽鉄道社長だった中上川を三井組参事、三井銀行副長に登用したものである。
中上川の就任後は、三井の経営において井上とことごとくに意見が食い違い鋭い対立を続けており、中上川の死によって、三井が鐘紡から手を引く恐れが出た。
1909年虞洽卿と共に寧紹汽船会社を設立、 1910年その寧紹航行維持会会長に選ばれ、その後、1918年温州府青田県の鉱山と舟山列島のタングステン鉱石の採掘権を取得した。
そして1925年、呉錦堂合資会社を設立した。
呉錦堂が、巨額の資金を投入した漢陽鉄工場・漢治萍石鉄鉱石会社から成り立つ鉄鋼連合企業たる漢治萍石会社は、中国史上初の新型機械設備を導入した企業としても有名となった。
兜町の仲買人は“買いの鈴久”とおそれた
鈴木九五郎
は4万数千株を持つ大株主の呉は、売り買いを自由に操作しながら利ザヤをかせいでいるのを、鈴久は見抜いた。
鈴久としては一介の華商に、日本の仲買人が手も足も出せないのはコケンにかかわると負けん気が頭をもたげ、内密に東京、大阪両取引所に出入りする配下に鐘紡株の“買い”を指令した。
140円前後をウロウロしていた鐘紡株に照準をあわせ明治39年9月、呉が145円で売りに出たのを知って
チャンス到来
とばかりに買い向った。
武藤山治は投機をもっとも嫌う人手、かねがね
事業は人である
を唱え、重役に就任した呉に対しても
軽はずみな投機はしない
ようにと申し入れていた。
しかし、紡績株の取得で味をしめた呉はその妙味が忘れられなかったようで、ライバルがいない間はうまく立ち回ることが出来た。
そこへ鈴久の出現となり日に日に高騰する紡績の値動きに、さすがの呉もあわてた。
「非常にいら立った態度で、早口にしゃべりながら自分の手で頭をたたいたりしている。部屋中を歩き回って私に何かを言うのだが、アクセントのある日本語だからよく聞きとれない。そのうち相場にひっかかって困っている様子がくみとれた」
そのころの呉の動揺ぶりを、武藤はあとでこう述懐している。
呉はムリを承知で、銀行から200万円借りて売りを通した。
しかしいくら売り込んでも相場は上がり続け、ついに200円を突破してきた。
呉は持ち株を全部はたき、そのうち追敷金を要求されて完全に行き詰まった。
武藤は呉の“慢心”をしかりつけたが、自分自身株を持たない一介の支配人でしかない。
呉の金ぐりを銀行に口ききするのがやっとで、鈴久の押しを防ぐ手だてはなかった。
ただ、鈴久側にも豊富な資金があったわけではなかった。
現物でなく、月限の強気の思惑買い。仲間の株を合わせて、もはや鐘紡の過半数を占めていた。
しかし、実株を買い取る資金調達が大変であった。
この一戦を天王山とみた彼は必至にあらゆるツテを求めて奔走したが、ほとんどの金融筋は、加熱した投機を危ぶんで、融資を断ってきた。
意外なところから援軍が現れた。安田銀行の安田善次郎頭取は
「株価が200円なら、200円いっぱい貸そう」
と話し、鈴久の度胸というより、鐘紡株の持つ将来性を買った。